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文京区小石川宗慶寺極楽水碑の几号水準点


文京区小石川宗慶寺極楽水碑の几号水準点

宗慶寺の極楽水碑の下部に刻まれているはずの几号水準点が埋まっています 。
なので地図マニアのツワモノが発掘した画像をインサート。

公的資料:地理局雑報にある記載
小石川久堅町八拾五番地極楽水碑臺石 11.3104m
古地図:明治20年(1887年)東京実測図より小石川久堅町八拾五番地(クリックで拡大)。
古地図:明治20年(1887年)東京実測図より宗慶寺と小石川久堅町八拾五番地(クリックで拡大)。

几号水準点って何?を参照

お江戸の頃の宗慶寺

江戸名所図会より宗慶寺極楽水
江戸名所図会より宗慶寺極楽水。

今とずいぶんと趣が違います。門から入って右側に極楽水があり、名水極楽水は有名でこの辺りの地名にもなってます。

このお寺宗慶寺も極楽水碑も播磨坂の開削によって吹上坂の方に移動しています。

播磨坂 吹上坂

嘉永七年(1854年)尾張屋刊 江戸切絵図
嘉永七年(1854年)尾張屋刊 江戸切絵図より極楽水と井戸マークの表記があります。

漱石先生がいう極楽水

極楽水はいやに陰気なところである。近頃は両側へ長家が建ったので昔ほど淋しくはないが、その長家が左右共闃然として空家のように見えるのは余り気持のいいものではない。貧民に活動はつき物である。働いておらぬ貧民は、貧民たる本性を遺失して生きたものとは認められぬ。余が通り抜ける極楽水の貧民は打てども蘇み返る景色なきまでに静かである。——実際死んでいるのだろう。ポツリポツリと雨はようやく濃かになる。
抜粋: 夏目漱石 「 琴のそら音」

時代は明治になって、極楽水周辺は「いやに陰気なところである」と夏目漱石先生は書いています。両側に貧民長屋が建ち並び、それらに全く活気がないと。
死んでいるとまで言っています(;  ̄ェ ̄)。
そこまで言う、、、

今では立派なマンションが建ち、さくらまつりで賑わう播磨坂も整備され、一等地です。

【悲報】極楽水碑が工事中?!

2015年1月2日、極楽水碑が倒されていました。どうやらお堂を改修中で入口の極楽水碑が邪魔で一時的に移動されているようです。再度建てるときは几号が見えるように建ててほしいと願っています。

倒れてる極楽水碑
倒れてる極楽水碑

【続悲報】極楽水碑は立ったけど

2015年9月、久しぶりに吹上坂を走ると、極楽水碑はお寺の元の位置に立っていました。

が、しかし、コンクリートで固められ几号水準点が見えません。掘り返すことすら出来ませんが、今後、長い間、この碑は残り、几号水準点も残ってゆくことでしょう。

極楽水碑


胸突坂と神田川


神田川から目白台地に一気に登る急坂。キツくて胸が苦しくなるというので「胸突坂」、別名「水神坂」。
坂下に関口芭蕉庵、水神社。周囲には椿山荘、永青文庫と美しい景観が広がります。
風情だけなら、文京区でナンバーワンでしょうが、歴史を見ると色々と変遷があるようです。

胸突坂の途中の休憩スペース。
胸突坂の途中の休憩スペース。
夜はライトアップされる椿山荘
夜はライトアップされる椿山荘
坂上の永青文庫
坂上の永青文庫
古地図:江戸切絵図(嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図より)
青矢印が胸突坂(嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図より)

江戸名所図会を見ると

江戸名所図会
江戸名所図会 芭蕉庵(クリックで拡大)

水神八まん「水神八まん」とあり、トイメンは関口芭蕉庵ではなく「竜隠庵」(りゅうげあん)?
はじめから関口芭蕉庵と呼ばれていたわけではなく、神田上水の水番屋、役人の詰所だったところの跡地に芭蕉を忍ぶ人々が庵を建て「竜隠庵」と称していました。
のちに芭蕉があまりにも有名になったので、関口芭蕉庵と呼ばれるようになったようです。
思えば、松尾芭蕉(1644ー1694年)はお江戸前期に活躍した人ですから、江戸時代中にどんどん神格化されていった様子が伺えます。

古写真:戦前の関口芭蕉庵
古写真:戦前の関口芭蕉庵。胸突坂がちょこっと写っています。

芭蕉は神田上水を作った水道土木技術者のように思われがちですが、俳句だけではプータロウのように思われるので、それを嫌い、全うな職として、ここで帳簿付けをしていたようです。職に就けたのもお弟子さんの紹介らしいです。
関口芭蕉庵とは後付けの名前で、しかも戦災で失われ、今のものは戦後の再建です。

因みに関口という地名は神田上水の取水口があったので関口といいます(目白坂、目白不動と関口水車の項参照)。

はせを堂図会の右のほうに「はせを堂」「こんぴら」「五月つか」とあります。享保11年(1726年)、芭蕉の33回忌にお弟子さんたちがお堂を、寛延3年(1750年)に芭蕉真筆の短冊を埋めた塚を作ったいいます。今は関口芭蕉庵内にあります。

関口芭蕉庵
関口芭蕉庵
芭蕉堂
芭蕉堂
さみだれ塚
さみだれ塚

地形がお江戸の頃とずいぶん変わっているような気がします。
駒塚橋(駒留橋)も今より下流にあります。
それもそのはず、図会をみると神田川が物凄く蛇行しています。これは誇張ではなく事実なのです。
神田川は、よく洪水を起こすような暴れ川だったようで、逆に言えば、それが幸いし、早稲田田圃に肥沃な土地をもたらし、早稲田というぐらいの早生米をもたらすことになるのです。

明治の地図をみると

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より

明治初期の地図をみても、やはり神田川は大きく蛇行しています。今は胸突坂下の駒塚橋も下流にあります。
青矢印が水神社の鳥居ですので、、、

ややややっ!胸突坂ではなく「闇坂or暗闇坂」に見えます(*’д’*)!
水神坂以外にも不気味な名前があったようです!
文京区を代表するような風情あふれる坂ですが暗い過去があったような?。

個人的な考えですが、坂の休憩スペースはゴミ置場だったのかと妄想してしまいます。
根拠としては、まず、人目に付きづらいこと。
また、幕府のお触れで、ゴミは深川沖まで船で持って行かねばならず、切絵図を見るとこの坂には番所が二つあり、ゴミ番を兼ねていたのではないかと想像できます。

明暦元年(1655年)正宝事禄にある町触れ

一、町中の者は川の中、その周辺にゴミを捨ててはいけない。今後は船を使って永代島へ捨てに行きなさい。ただし、夜間のゴミの持ち出しは禁止し、昼間だけにすること。

二、軽率に船を係留しておいてはいけない。船の通行を妨げないように係留しておきなさい。

三、たとえ少しであっても川を埋め立てて、河岸端を築いてはいけない。

坂上には町人地もあり、神田川の水運を利用してゴミを運搬するには絶好のシュチエーションに思うのですが、、、
ましてや神田上水の取水口の上流に位置しているので、川へのゴミ不法投棄は厳禁だったと想像できます。いかに(?_?)。

胸突坂2

確かに舗装もなく木々に覆われていたら不気味な、危険な感じすらします。たとえゴミ坂だったとしても暗い過去は言わぬが花(^_^)。今では周囲の景観に合わせてキレイに整備され、坂道マニアにはたまらない坂です。

水神社

古写真:水神社(昭和初期と思われる写真)
古写真:水神社(昭和初期と思われる写真)

水神社は大木の間に参道があり今と変わっていなくてホッ。
神田上水を引く時に守護神として祀ったのが始まりといいます。創建不明といいますが家康公のころからあるのでしょうか?
江戸名所図会には大木が描かれていないのが気になりますが、お江戸のころに植えたものなのでしょうか?

水神社
水神社
水神社大木の参道
水神社大木の参道

いずれにせよ、この辺りの変遷は神田川に因るところが大きいようです。古写真をみてみましょう。

神田川、古写真による変遷

古写真(明治末):早稲田田圃から椿山荘(山縣有朋邸)のほうを見る
古写真:早稲田田圃から椿山荘(山縣有朋邸)のほうを見る

明治初期

凄っ!今は都会の住宅地になっている早稲田田圃に水車があり、江戸名所図会のように神田川土手があります。

明治初期の駒塚橋

明治初期の地図でも早稲田田圃が広がっています。

明治末

古写真(明治末):神田川と早稲田東電変電所
古写真(明治末):神田川と早稲田東電変電所。おじさんが神田川で釣りをしていてのどかです。
だいたい同じ位置から現在
だいたい同じ位置から現在。駒塚橋がだいぶ上流に移動しました。

明治末の駒塚橋

明治の末になるとだんだんと文明の香りがしてきます。地図では配電所とあります。

大正期

古写真:大正時代の駒塚橋

これは上流から椿山荘(大正期は藤田邸)のほうをみています。駒塚橋が今よりやや下流です。

だいたい同じ位置から現在
だいたい同じ位置から現在。神田川のカーブが違っています。

大正時代の駒塚橋

大正期になると変電所の隣に都電の車庫ができています。早稲田田圃の宅地化が進んでいます。

いやはや、いつものブログ記事だと、地形が変わっていませんねえって締めくくれるのですが、川に関しては変わり過ぎです。しかしながら変わらないものもあります。区境です。

昭和の区界
昭和の区境
現在の区界
現在の区境

この辺りは豊島区と新宿区境界が元の神田川の蛇行を基準にしているので、記事を書く時、軽くイラっとします。しかも椿山荘あたりは文京区で3区が入り混じっている複雑なエリアでした (≧∇≦)。