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神楽坂と光照寺(大手門通りから牛込城跡へ)

大手門通り

前編からの続き

神楽坂のメインストリート、毘沙門天の脇から入る道を大手門通りといいます。
ここが牛込城への入口だったと気づく人は誰もいません。

大手門通り
大手門通り

緩やか坂道を登り光照寺の方角に向かっています。
今ではここからは光照寺へ行けませんが。

隠れキリシタンの墓?

また余談ですが、、、
全く城跡の名残りがない光照寺ですが、光照寺には隠れキリシタンの墓石と言われるものがあります。なぜ隠れキリシタンかというと戒名が「桐安」ーキリスト教の「キリエ」、額の花飾りが十字架を形どっている、との理由から。「私は空飛ぶ円盤に誘拐された」ぐらい怪しい話です。

隠れキリシタンの墓
隠れキリシタンの墓?

今では隠れキリシタンの墓?は諸国旅人供養碑の一部としてまとめられてます。
これは神田の旅籠、紀伊国屋主人が行き倒れの旅人を不憫に思い建立したものです。

諸国旅人供養碑
諸国旅人供養碑

昔の旅は、命がけだったということがよく分かります。
そこをいくと松尾芭蕉は足も早く元気だったので芭蕉忍者説なんてえものが出てきたわけです。

総合的に見ると

走ってみた感覚でいうと、光照寺が本丸、神楽坂上周辺が第二郭、兵庫横丁が第三郭でしょうか?

等高線のある明治の地図でみてみましょう。
光照寺は標高27メートルの崖上にあって、確かに城郭を作るには最適な場所だったと想像できます。
ここから江戸湾に入る舟も監視できたといいます。

A地点が光照寺、B地点が大手門通り、C地点が兵庫横丁。
この地図でみると、ややややっ、D地点がお城の石垣の角っぽいです!(*’д’*)

古地図:牛込城跡の考察
牛込城跡周辺(明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より)

そう思って後日、大手門通りを行くと、、、

光照寺墓地の崖
光照寺墓地の崖。牛込城の石垣の名残りか?

こんな光景でした。崖上は光照寺の墓地です。
お城の石垣の角っぽい!
地形はなかなか変わりません。
牛込城跡らしい唯一の痕跡です。

ところで「牛込」という地名は、大宝律令(701年)の頃、牛牧という牧場がこの地に建てられたのが始まりといいます。古代の国営牧場としての名称で「駒込」「馬込」などもそれにあたります。

ついに古代まできてしまった。
神楽坂周辺には古い歴史があります。

観光客で賑わう神楽坂ですが、神楽坂のこんな歴史を予備知識にして散策するのも楽しいかと思います。

【続報】牛込城跡近くの赤城坂の赤城神社も地形的にみて、砦だったのかもしれないと疑念があります。
【続続報】筑土八幡神社周辺も出城だった可能性があります。

意外な歴史の神楽坂四部作

神楽坂と光照寺(牛込城跡)
神楽坂と仇討ち事件
神楽坂と漱石先生
神楽坂のオシャレな坂たち

 

神楽坂と光照寺(牛込城跡)

東京で一番有名な坂、神楽坂。一つの坂の名前というより神楽坂エリアという一大コマーシャルタウンです。お江戸の昔から商業地区として栄えていましたが、その前はというと、、、

14世紀、赤城山の豪族大胡氏(のちの牛込氏)が今の光照寺辺たりに牛込城を築いたのが神楽坂の始まりといいます。
えっ、神楽坂上付近は牛込城の城跡?!
光照寺を見てもここがお城だったとは全く想像できません。

家康公の江戸開幕のころ、荒れ地や沼地だった新宿区で唯一、町としての形態があったところだといわれています。

開幕後、牛込城は軍事的必要性が無くなり廃城となりました。

かつては牛込城だったという光照寺
かつては牛込城の本丸だったという光照寺

神楽坂の兵庫横丁

兵庫横丁は鎌倉時代からの古道で、神楽坂で一番古い道です。
なぜ兵庫かというと牛込城の武器庫(兵庫)があったからといいます。

戦国時代よりも前からあった道だなんて江戸っ子もビックリしたことでしょう。

今では石畳の美しい、最も神楽坂らしい道の一つです。

兵庫横丁
兵庫横丁
兵庫横丁の石畳
兵庫横丁の石畳

牛込城の抜け穴?!

日本出版クラブ会館
日本出版クラブ会館

光照寺の向かいに日本出版クラブ会館があります。
この建物の建設工事中に地下に大きな横穴が発見され、牛込城の抜け穴かと話題になったそうです。

幕府クーデターを計画していた由比正雪が掘った抜け穴か?などの説も出たとか。
(由井正雪は牛込榎町(今の大日本印刷辺り)に居を構えていましたが、ここに抜け穴を掘る必要があったのか?)

また地元の口伝で、こんな話もあります。

 明治の頃、光照寺で働いていた植木職人が急にいなくなり、探すと近所の南蔵院にいた。
 どうやってここに来たのかと尋ねると抜け穴に迷い込んでここに出てきたと言う。
 えぇー!ぬっぬけ穴ぁ〜っと一同、ビックリ!
 話の真相は職人が仕事をサボって南蔵院の和尚さんと将棋を打っていたが、口から出まかせの嘘が広まってしまった。

という話です。ほんとに抜け穴があったら今頃、観光地になっています。

光照寺から南蔵院って道が繋がってるから、人目を避けて、こっそりと行けるんじゃねっ?
と思い、気になって明治の地図をみると、、、

古地図:南蔵院と光照寺
南蔵院と光照寺。明治の地図と昭和の地図

今あるS字カーブ(急勾配なのでS字カーブ)の坂道がありません。この坂道は太くて立派な急坂なのになんで名前がないんだろうと思っていましたが、昭和に開削された坂だったのですね。

S字カーブの坂
S字カーブの坂
南蔵院
南蔵院

明治の地形なら、道も無いし、抜け穴を通って崖下の南蔵院へ、と言っても信じてしまうかもしれません。
獣道ならぬ職人道なるものがあったのかも。

南蔵院の母子の墓石
南蔵院の母子の墓石

余談ですが、、、
南蔵院には珍しい墓石がありました。
母子の合葬墓石で母は延宝七年(1679年)銘、子は慶安元年(1648年)銘。子は不生とあり死産だったのでしょうか?

子どもの死の30年後、あの子といっしょに弔って、と言ったお母さんがいたかと思うと、ジーンと泣けてきて手を合わせました。
しかしながら、ずいぶんと古いものなので、ここ南蔵院も牛込城と関係があるのかもしれません。

話を戻すと、、、
日本出版クラブ会館の話も江戸時代の麹室(こうじむろ)か、食料貯蔵庫だった可能性が高いといわれています。
いつの時代もみなさん話を盛るのが好きです。

神楽坂に牛込城があった証拠として、
神楽坂には「大手門通り」という道があるのです。

後編・大手門通りから牛込城跡へに続く

意外な歴史の神楽坂四部作

神楽坂と光照寺(牛込城跡)
神楽坂と仇討ち事件
神楽坂と漱石先生
神楽坂のオシャレな坂たち