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新宿区の二つのゴミ坂と江戸市中引き回しコース(前編)

新宿区市ヶ谷近くのゴミ坂でブラタモリにも登場した興味深い坂です。ここを訪れてみて思うのは、ごみざか歩道橋がなかったら、この坂からは身を投げるか、ゴミを投げるしかないというような崖っぷちなのです。

DNP(大日本印刷)のエリアで、ずいぶんと地形が変わっているとは思いますが、お江戸、明治の頃も急坂だったようです。

ごみざか歩道橋
ごみざか歩道橋
古地図:嘉永七年(1854年)江戸切絵図
青矢印がゴミ坂(芥坂)。「長延寺谷ト云」の表記があり、谷に市場が立ったので市ヶ谷の語源となったと、諸説ありますが。嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図

江戸切絵図を見ても、町人地が多く、お堀の水運を利用してゴミを永代島(深川沖の埋め立て地)まで運搬していたと想像できるシュチエーションです。

明暦元年(1655年)正宝事禄にある町触れ
 一、町中の者は川の中、あるいはその周辺に掃き溜めのゴミを捨ててはいけない。今後は船を使って永代島へ捨てに行きなさい。ただし、夜間のゴミの持ち出しは禁止し、昼間だけにすること。

以前、胸突坂はゴミ坂だったのではないか?と疑惑の目を向けましたが、ここがゴミ集積場であったということは誰も疑うことはないでしょう。

「御府内備考」にも記述があります。

坂、長凡二十間程幅一間。右は町内北の方に当、西より東え登坂にて古草木覆茂有之候に付、暗闇坂と唱、其後芥捨有之候故、芥坂と茂申伝候由

別名「暗闇坂」と言っています。「其後芥捨有」と言っているので、目隠しの森の裏にゴミ捨場があったのでしょうか(芥とは、ごみ、ちり、くずの意味)。

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より芥坂
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より

明治初期の地図をみても、芥坂とあり、ずいぶんと急坂です。
疑いの余地はありません。では、近くの牛込神楽坂にあるもう一つのゴミ坂まで行ってみましょう。

走ってみると、、、

なっ、なんと!このルートが江戸市中引き回しコースと同じだったのです。なるべく分かりやすい道でと考え、走ってみると江戸市中引き回しコースとカブっているではありませんか!

 icon-arrow-circle-right 江戸市中引き回しコースだったとは!後編に続く

赤城坂と古地図の間違い

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より赤城坂周辺
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より赤城坂周辺

赤城坂を調べていたとき、明治の地図をみてビックリ!
赤城神社の崖下に「喜楽座」?その近くに「赤城座」
この明治初期の地図では寺社がで示されるお約束なのですが、で芝居小屋?
他の地域は芝居小屋は描かれているのかもしれませんが色は民家と同じで「◯◯座」などの明記は無いのが普通。
この地域を担当した人は、そうとうな芝居好きだったと思われます。

古地図:藁店周辺
藁店周辺(芝居小屋の明記がない)

神楽坂の寄席とか芝居小屋が載っていれば面白いのになぁ、藁店にあった夏目漱石先生が通った「和良店亭」はどれだろう?といつも思っていたのですが、赤城坂だけ、なぜか芝居小屋の明記があります。屋根の形まで詳しく、どんな建物だったのかも想像できます。赤城神社の境内にある赤城小学校もです。

地図オタでないと、(ノ゚⊿゚)ノハア?ですよね。でも、これはうれしい間違いなのです。

古写真:明治の赤城神社
古写真:明治の赤城神社
近代的になった赤城神社
近代的になった赤城神社

ずいぶんと近代的になりましたねえ。
オシャレな観光スポット、神楽坂にはぴったりマッチしそうです。

赤城神社は、正安2年(1300年)群馬県赤城山の豪族大胡氏(のちの牛込氏)が牛込に移住した時、赤城神社の分霊をお祀りしたのが始まりと言われています。
その東側、神田川方面から一気に登る坂が赤城坂です。スリップ防止の丸い凹み(ドーナツ坂と勝手に呼んでます)が付けられた急坂です。

頂上部はなんでこんなに急なのぉ?と思ってしまうくらいの急勾配です。
ここに道を作る必要性があったのでしょうか?
中世の戦略的な道と疑ってしまいます。。。

赤城神社は砦だったのか?

大胡氏(のちの牛込氏)といえば、神楽坂の牛込城を作った一族。この赤城神社もお城に関係しているのでは?
赤城坂中腹から赤城神社をみると、、、

崖上が赤城神社
喜楽座があったあたりから見る崖。崖上が赤城神社

何かあやしい?これって砦かも?
以前考察した牛込城は江戸湾側の監視、ここは内陸側の監視にぴったりな崖上なのです。
これは牛込城の出城、砦、見張り台ではないかと妄想してしまいます。
牛込城と何か繋がりがあるのかもしれません。
侍たちが砦に向かって一気に駆け上がり、敵を待ち受ける場所と思えば、赤城坂の急峻さも意味があるように思えます。

金銀山猫?

江戸名所図会(赤城神社)
江戸名所図会(赤城神社)クリックで拡大。

手前に急峻な赤城坂が描かれています。昔も今も同じくらいの勾配でしょう。
赤城神社の裏門への石段も描かれていて、今と変わりありません。

赤城神社の裏門
赤城神社の裏門

江戸時代、赤城神社の境内と周辺は、江戸黒歴史の一つである岡場所(幕府非公認娼婦街)として有名でした。
しかも神楽坂エリアにはもう一つ、行元寺周辺にも岡場所があったといいます。
神楽坂で遊ぶことを「金銀山猫」といい、金は金一分(25000円)で赤城神社を指し、銀は銀七匁五分(12500円)で行元寺。山猫は「山の手で寝る子」という意味の私娼婦で、はじめは寺僧相手の娼婦だったそうです。
岡場所にもランクがあったようで面白いです。
山猫というのは、この近くの桜木町(大日坂手前)亀ヶ岡八幡の岡場所は山の下、崖の下なので、山の手を強調したかったのでしょうか。江戸っ子は見栄っ張りです (≧∇≦)。

赤城坂
赤城坂(坂下から)

中世には、赤城坂を駆け上る猛者どもがいたのでしょうか?
時は流れてお江戸では、
のんびり登り、遊びにくる若旦那の姿が目に浮かびます。