八幡坂と石川啄木

石川啄木の八幡坂と今宮神社

八幡坂
八幡坂。左に直角に折れる階段付きの坂
八幡坂(カーブ後も長く続く)
直角カーブ後も長く続く八幡坂。

途中から直角に曲がる味のある階段付きの坂です。直角に曲がって鳩山さんのご実家だった鳩山会館の裏口へとつづく坂です。八幡坂というぐらいなので坂下の神社は八幡様だろうとおもいきや、今宮神社です。
江戸切絵図に表記されている田中八幡は近所の小日向神社にお引っ越しなされて、また近所の護国寺から今宮神社がお引っ越しされてきたらしいです。ややこしいのですが明治の神仏分離が神様の引っ越しシーズンを生み出したのでしょう。

道に石が埋まってます!

今宮神社
鳥居の前の道に石橋の跡?

この今宮神社の社殿前の道に、なにやら石橋らしきものが埋まってます。初めて見たときからあやしいと思っていたんですが、この道、実は音羽川の暗渠なのです。明治の中頃まで音羽川(水窪川)が流れており、川の水を利用して紙漉き業が盛んだったそうです。
「失われた川」は緩やかに傾斜、緩やかにカーブしてて走るのが好きです。ときどき、ガードレールではなく橋の欄干とかが残っているとたまりません。

久世山沿いの音羽川の暗渠の道
かつて久世山(写真右手)に沿って川の流れがありました。
音羽川暗渠の出口
江戸川橋から見えるトンネル。音羽川暗渠の出口?

神(紙)様のありがたいご利益

今宮神社境内にある末社に、天日鷲(アメノヒワシ)神社があります。この神様、紙祖神で明治9年、紙漉き業者一同が商売の発展を願い、この地に勧請したとのことです。神様でなく紙様?失礼しました。 私は髪様にお願い。またまた失礼しましたm(_ _)m。

今宮神社内の天日鷲(アメノヒワシ)神社
紙祖神であらせらるる天日鷲(アメノヒワシ)神社

どおりで近所に出版、印刷業が多いわけです。私のランエリアの中で講談社、凸版印刷、共同印刷とビックネームが。少し足を伸ばせば市ヶ谷の大日本印刷も。中小を合わせれば数限りない。東京都の方針で、というものが強いと思いますが、神(紙)様のスーパーパワーが結びつけたご縁とも言えます。

ふと思ったこと。

私は信心深いわけでないけれども、風邪を引きそうなとき、温かい風呂に入って、くだものを食べて、あとは心の中で神様にお願いする自分がいる。自分ではどうしようもないとき、神様に頼っている。
神様の存在を信じないと言っている人でもなんらかの形で神様と関係を持っているのだと。また神様に助けられているんだと。

神(紙)様のスーパーパワーはあるのかもしれません。

なんとなく匂うゴミ坂臭?

この八幡坂、風貌、地形からして江戸時代はゴミ坂(ゴミ集積場)だったんじゃないかな?と思い、切絵図を見ると、御賄組(幕府の食料管理役)の区画への入口で木戸があり、妄想だけに終わりました。ここには木戸があったのです。
御賄組は幕府へ供給する野菜の管理、一説には毒味をしていたので衛生面からしてもゴミ坂はないでしょう。疑うなら御賄組の区画の北側の鼠坂の方が名前からしてあやしいです。

八幡坂入口(なんとなくゴミ坂っぽい)
木戸があった辺りの八幡坂の入口。なんとなくゴミ坂っぽい?閉ざされた雰囲気が妄想を誘う。


ゴミ坂関連のページ

古地図:八幡坂周辺(嘉永七年(1854年)尾張屋刊 江戸切絵図)
八幡坂周辺 嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図。田中八幡、八幡坂の木戸、ほそーい音羽川に注目。

このあたりは歴史ロマン溢れる名坂揃いです。鷺坂鼠坂大日坂は情緒も勾配もあって、ランして鍛えるのにも最適な坂のあるエリアです。

八幡坂案内板
八幡坂
八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と東京名所図会にある。
 明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。
 文京区教育委員会
 平成5年3月

4度目のランで発見!啄木の足跡。

坂の頂上近くに石川啄木、初の上京下宿跡のプレートがあります。走ってると見逃してしまいます。実際、4度目のランで発見しました。これパッと見、大きい表札か会社の看板にしか見えません。大館光(みつ)さんの家がこの辺りにあったということになります。この八幡坂を啄木もトボトボと歩いたと思うと、ますますこの坂を好きになってしまいます。ロマンがあります。

啄木の下宿跡プレート
わかりずらい啄木の下宿跡プレート。

啄木下宿跡案内

石川啄木初の上京下宿跡
盛岡中学校を卒業直前にして退学した啄木は、文学で身を立てるため、明治35年(1902)単身上京した。そして、中学の先輩で金田一京助と同級の細越夏村の旧小日向台町にあった下宿を訪ねた。明治35年11月1日のことである。
その翌日、近くの大館光(みつ)方に下宿先を移した。
啄木日記には「室は床の間つきの七畳。南と西に橡(えん)あり。眺望大に良し。」とある。
与謝野鉄幹・晶子らに会い、文学に燃焼した日々を過ごしたが、生活難と病苦のため翌年2月、帰郷せざるを得なかった。
文京区教育委員会
平成18年3月

石川啄木の八幡坂グーグルマップはこちら
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狛犬(宝暦甲戌四年)

今宮神社の狛犬は宝暦四年(1754年)八丁堀の石工、小右エ門さんの作です。中央区八丁堀から、音羽の護国寺、今はここへと来たんですかねえ?よく歩く立派な狛犬さんです。
台座に宝暦甲戌四年とあります。

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