筑土八幡石垣

新宿区の御殿坂と筑土八幡神社(後編・芥坂)


新宿区の御殿坂と筑土八幡神社(前編)からの続き

キリシタン灯籠

これキリシタン灯籠でも織部灯籠でもいいけど、なんでこんなところにあるのでしょうか。いい加減なことは言えないので詮索は止めておきますが、かなりディープです。

キリシタン灯籠に関してはこちらのページの最後のほうをご覧ください。

筑土八幡神社の謎の庚申塔

筑土八幡
筑土八幡本殿

筑土八幡神社には、もっとディープな珍しい庚申塔があります。

普通、庚申塔は「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿タイプ、庚申信仰のシンボルである青面金剛タイプ、庚申、庚申塔の文字だけタイプに分類されます。

庚申塔あるある3つのパターン
庚申塔あるある3つのパターン

しかしながら、筑土八幡にある庚申塔は、、、

筑土八幡の謎の庚申塔
筑土八幡の謎の庚申塔
庚申塔の銘文
寛文四年甲辰年(1664年)
放覚法院、山川権右門、金出仁兵衛、福田新左門、山口七左衛門、黒木嘉右衛門、石井◯左衛門、河村九左衛門、妙◯女、清信女

これは珍しいです!年代が古いので、あるある3パターンが一般化される前のデザインでしょうか?

庚申の申(さる)、天帝さまに告げ口されないようにと三猿タイプ、中国の道教思想からくる青面金剛タイプ、庚申、庚申塔の文字だけタイプの三つが一般的なのですが、これは二匹で牡牝の猿と桃がデザインされています。

しかも牡に至っては、お◯ン◯ンが付いていて、女性器をシンボライズした桃を持っています。最上部に月日の陰陽もあります。これって出産、安産祈願、もしくは性崇拝の手法ではないでしょうか(?_?)
庚申信仰との繋がりって、猿繋がりしかないような?

また、この庚申塔には伝承があり、もとは吉良邸にあったものだとか、由井正雪の愛玩のものだったとか、好き勝手に云われています。

妄想するに何かの像の改刻バージョンではないかと私は思っています。
まず性崇拝と庚申信仰は結びつかず、もともと建立した人々が明らかになっているものに、伝承は付きづらいかと思います。
庶民の建立したものが吉良邸にあるはずがありません。

考えるなら、お武家にあった像を貰ってきて江戸っ子庶民が銘文を刻んだのかと。もと庚申塔を改刻して道祖神とした例、無縁仏の墓石を石畳にした例もあり、江戸時代、石造物のリサイクルは一般的だったようです。いかに?謎が深いです。

庚申塔に関してはこちらのページをご参照ください。

ブラタモリに登場したゴミ坂(芥坂)

芥坂

筑土八幡神社裏に、ブラタモリに登場したゴミ坂があります。幕末の切絵図をみると旗本御家人地の中で、筑土八幡の周りにだけ、町人地がビッシリとあります。

ブラタモリで紹介された他の二つのゴミ坂のように市中引き回しコース上ではありませんが、町人地が多いところです。

芥坂(明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より)
芥坂(明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より)

明治の地図にも「芥坂」と表記があります。「八幡祠」「筑土祠」「御殿坂」の表記もあります(芥とはチリ、ゴミのこと)。

この地形は坂下が鬱蒼とした森、林ではなく、片側が崖になっていたのかと想像できます。今も片側がドスンと低くなっています。坂下の森で目隠しするほど坂上が高くないです。崖からゴミを投げ捨てたのでしょう。
ブラタモリで筑土八幡神社の宮司さんが「あっ、芥坂のことね」と言っていたのが印象深いです。

山に行くと山道の斜面に投げ捨てた冷蔵庫やテレビとかゴミの不法投棄を見ることがあります。決して、やってはいけないことですが、人間って不要なものが目線の高さから消えてゆく事に快感を覚えるのではないかと思ってしまいます。

芥坂の崖下
芥坂の崖下。この崖上からゴミを捨てたのでしょうか?

ゴミ坂を考察した以下のページもご参照ください。

庚嶺坂は幽霊坂?
庚嶺坂(ゆれいざか)の多すぎる別名

文京区には二つの幽霊坂があります。
文京区の二つの幽霊坂についての考察

芥坂の別名を持っています。
立爪坂の別名と歌川広重、スケッチの場所

新宿区に二つのゴミ坂があります。
新宿区の二つのゴミ坂と江戸市中引き回しコース

千代田区のゴミ坂。
千代田区の幽霊坂と消えた坂の秘密

筑土、津久戸とは

筑土とは土を突き固めたて作ったという意味か?
津久戸の場合は海が関係しているのか?もとは海に突き出た半島だったのか?海食崖だったのか?
千代田区の江戸城付近に昔、津久戸村という村があったという説もあります。
神社由来にある「紫の宇佐の宮をもとめて礎にしたので」ってぇ?も〜、何だかわかりません。

また、地元の研究者は神楽坂よりもかなり古くから開けていた軽子坂を古鎌倉街道とし、この位置(筑土八幡神社)には砦があったのではないかという人もいます。

御殿山の崖
御殿山の崖。なんだか「これって東京?」って思ってしまいます。

走っていると突然出現する御殿山、御殿坂や筑土八幡神社の切り立った石垣、崖をみると、牛込城の街道監視のための出城だったのかと妄想してしまいます。砦だった場合は土を突き固めて作った「筑土」が一番近いのかもしれません。

御殿の位置、筑土、津久戸、キリシタン灯籠、庚申塔のデザインと謎多きエリアです。それだけ謎が多いということは、神社由来がいうようにお江戸以前の古代、鎌倉、戦国からの古い歴史がありそうです。

筑土八幡神社 神社由来
 昔、嵯峨天皇の御代(今から約千二百年前)に武蔵国豊嶋郡(こおり)牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。
 ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、 目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまった。
 翁はこのことを里人に語り神霊の現れたもうたことを知り、すぐに注連縄(しめなわ)をゆいまわして、その松を祀った。
 その後、伝教大師(でんきょうだいし)がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。
 その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、
筑土八幡神社と名づけた。
 さらにその後、文政年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地を産土(うぶすな)神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
 現在、境内地は約2200平方メートルあり、昭和二十年の戦災で焼失した社殿も、昭和三十八年氏子の人々が浄財を集めて、 熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽可視・ 神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。

 


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