千代田区中坂(坂上より)

千代田区の中坂、冬青木坂

坂道番付東京で一番、有名な坂はどれか?という問いがよくあります。
一番を争うのは、神楽坂九段坂でしょう。これは江戸時代の坂道番付を見ても同じで、今も昔も変わりません。
また、これら有名な二つの坂は、平行する坂を持ってます。

神楽坂軽子坂
九段坂中坂です。

なぜ、平行して付随する坂を持っているかというと、それぞれ性格が違い、別の用途のための坂だったからです。

神楽坂は歓楽、商業の坂、
軽子坂はそこへ物資を輸送する運輸の坂。

九段坂は観光の坂、
そして、中坂はというと商業、運輸の坂だったのです。

図絵に見る中坂

江戸名所図会より九段坂、中坂、もちのき坂
江戸名所図絵より九段坂、中坂、もちのき坂(クリックで拡大)

江戸名所図絵を見ると、九段坂のお隣に中坂が大きく描かれています。点在する人々の数も九段坂よりも中坂の方が多く、商業地としての面目を保っています。
大八車も多く、活気が感じられます。
葛飾北斎の浮世絵「くだんう志がふち」がある説明板葛飾北斎の浮世絵を見ても、九段坂は、今よりもずっと急坂で、牛ヶ淵に面した崖っぷち。
遠くは江戸湾、房総の山々を見渡せたと云います。
観光スポットになるのは当然の事です。

牛ヶ淵の桜
牛ヶ淵の桜

牛ヶ淵の名は、大八車を引く牛が、あまりに急な坂なのでヘタって淵に落ちたというのが由来です。

このことから、お江戸開幕当初、九段坂は運輸にも利用されていたのがわかります。九段坂下では、大八車を押す押し屋が繁盛していたと云います。

古地図:寛文10-13年(1670-73年)新版江戸大絵図より、階段坂表記の九段坂。赤ラインが中坂が形成されるルート
寛文10-13年(1670-73年)新版江戸大絵図より、階段坂表記の九段坂(青矢印)。赤ラインが中坂が形成されるルート。

お江戸初期の地図には中坂はまだ無く武家地になっています。
急峻な九段坂に代えて、それよりもなだらかな中坂が形成され、物資輸送に利用されてゆきます。

古地図:嘉永二年(1849年)文久二年 (1862年)改 尾張屋刊江戸切絵図より
嘉永二年(1849年)文久二年 (1862年)改 尾張屋刊江戸切絵図より「九段坂」「田安イナリ」「飯田町中坂通」「モチノキ坂」

お江戸後期の切絵図では、武家地から町人地となり「飯田町中坂通」となっています。

千代田区の中坂

この坂を中坂といいます。『御府内沿革図書』によると元禄三年頃(一六九〇)までは武家地となっており坂はできていませんが、元禄十年(一六九七)の図以降になると中坂が記載され、元禄十四年(一七〇一)以降の図には世継稲荷神社も見ることができます。なお、『新撰東京名所図会』には「中阪は、九段阪の北方に在り。もと飯田阪といへり。飯田喜兵衛の居住せし地なるに因れり中阪と称するは、冬青阪と九段阪の中間に在るを以てなり。むかし神田祭の山車等は、皆此阪より登り来れるを例とせり。」とかかれています。
千代田区教育委員会
平成十三年三月

この説明にあるように、神田祭の山車は急坂の九段坂を登れず、中坂を登ったようです。
また、中坂には観光スポットもあり、集客に一役かっています。
図絵にも描かれている「世継稲荷」です。

世継稲荷

世継稲荷

江戸名所図会より世継稲荷この辺一帯を田安村といったことから、「田安稲荷」とも呼ばれ、切絵図の表記は「田安イナリ」となっています。
文久2年(1862年)、14代将軍家茂公の正室、皇女和宮が子宝を願い参詣したこともあるほど、霊験あらたか。
子宝を願う人々に信仰されています。

位置的にも、中坂中腹の南側にあり、今と同じなのですが、大きく変わっているのは、お隣に新宿区から筑土神社が移転してきていることです。

筑土神社

中坂に面する筑土神社
中坂に面する筑土神社の鳥居

新宿区の御殿坂を調べている時に知ったのですが、筑土神社は筑土八幡のツイン的な神社でした。

社殿のデザインもよく似ていて、お隣に面していたですが、昭和20年の空襲で焼け、翌年、千代田区のこの地に引っ越して来ました。

筑土八幡と筑土明神:江戸名所図絵より
筑土八幡と筑土明神:江戸名所図絵より(クリックで拡大)

現在の社殿の姿はというと、鉄筋コンクリート造で、手前のビルの柱がエンタシスのように立ち、参道が美しい。
都会にマッチする新しい寺社のデザインと思い感心しています。

千代田区筑土神社

筑土神社(裏側から)
筑土神社(裏側から)

空襲で焼け残った狛犬も移転してきています。これも筑土八幡のものと同じデザインですが、かなり焼け焦げた跡があります。

筑土神社の狛犬

筑土八幡
筑土八幡

筑土八幡に関しては
こちらをどうぞ

冬青木坂

文京区にも「中坂」という名称の坂が二つあり、これらの中坂はそれぞれ、妻恋坂と天神石坂、浄心寺坂と胸突坂の中間に位置したのでそう呼ばれています。

冬青木坂(もちのき坂、モチノキ坂)

モチノキ、冬青木
Photo © Azul

千代田区の中坂はというと、九段坂と冬青木坂の中間。
冬青木坂(モチノキ坂)を読める人はなかなかいないと思いますし、坂道説明柱にはさらに、崩した書体で書かれています。モチノキは常緑広葉樹であるので「でも青い木の坂」。
また、九段坂下を東に少し行くと同じく難読漢字の「俎橋」があります。

俎橋
俎橋
江戸名所図会より「まないたばし」
江戸名所図絵より「まないたばし」

俎橋(まないたばし。切絵図上では俎板橋の表記)同様に古い漢字を残すことも歴史の一端として大事なことだと言えます。

この坂を冬青木坂といいます。「新編江戸志」には「此所を冬青木坂ということをいにしへ古びたるもちの木ありしにより所の名と呼びしといえど左にあらず此坂の傍に古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木ありとぞ。目にはもちの木と見まがえり。この樹、先きの丙午の災に焼けてふたたび枝葉をあらはせじとなん。今は磯野氏の屋敷の中にありて其記彼の家記に正しく記しありという」とかかれています。
千代田区教育委員会
平成十四年三月

嘉永二年(1849年)文久二年 (1862年)改 尾張屋刊江戸切絵図よりモチノキ坂坂道説明にある磯野氏の屋敷(磯野丹後守)は切絵図上で、冬青木坂上に見ることができます。

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