千駄木のお化け階段と黄色いテープの家

千駄木藪下通りとおばけ階段の事件(前編)


千駄木のお化け階段前回、ワトソ子くんに見せられた黄色いテープが張られている写真。FBグループのOくまさんが撮った坂道の写真にも黄色いテープがあります。

前回の「朽ちた門」参照

これは事件の匂いがプンプン。
坂道探偵社としては初の本格的事件かもしれません。なので今回はこの話を持ってきた相棒のワトソ子くんに話してもらった方が良さそうです。いつも寡黙に事件に取り組むワトソ子くん。彼女は一体、何を考えているのか?
これ以降、主人公はワトソ子くんとなり、顛末を語っていただきます。

わたくしワトソ子

わたくし「ワトソ子」と申します。北海道出身です。坂道社長は、わたくしの愛するハズの出身地、青森の出身と思い込んでいらっしゃいますが。

わたくし、坂道探偵の相棒ということになっておりますが、師弟関係はございませんの。それに坂道社長のブログを見ると、殆んどの事件は、わたくしが調査、助言しているのに、自分の手柄のように書いています。わたくし、人見知りで、あまり多くの方と接触していない謎の女です。隠れていたいので、坂道社長の影で、良しとしています。

今回はわたくしが見た事件性の高い坂なので書かせていただきますわ。

調査しますわ

千駄木のおばけ階段例の写真を見せたら「これは行かねば!」と坂道社長はノリノリです。いつも走ってくる坂道社長。サッカーだのリレーマラソンだのやっていらっしゃるので、鍛えるのは良いのですが、初めてお会いした時もTシャツ、短パン囧rz、次の時も、その次の時も。女性に会う時くらいはオシャレしたいとか思わないのかしら?。

「おはよう、ワトソ子くん!」
「おはようございます。今日はジヤージですね」
「うん、寒いからねぇ〜。コート買うお金もないぐらい寒っ!懐が、あはは」

まぁ、短パンよりマシですが、相変わらず、寒いギャグが得意で、デリカシーがない方ですわ。

「さあ、行きましょう。事件現場へ」
「あっ、ちょっと待って。FBグループのK子さんから、汐見坂の調査依頼があったんだよ(*´艸`*)、まずはそっちからね〜」

この人、優しいのか、女好きなのか、よくわからない人です。時々、綺麗な文章を書くので褒めてあげると、「えへ(*´σー`) 、ラブレターで鍛えてるからねぇ〜」と。本当なのかしら?

汐見坂

汐見坂

朝倉「なるほどぉ、K子さんの言うように趣きのある坂だねぇ。ただ、丸石の石垣は時代の新しいものだよ」
と言いながら、坂上の大きな家を見ています。
「朝倉ってあの彫刻家の朝倉?」
「坂道社長、調べてありますわ」

朝倉 響子(あさくら きょうこ、1925年12月9日 - )は、日本の彫刻家。本名は矜子。彫刻家朝倉文夫の次女として東京に生まれる。姉は舞台美術家で画家の朝倉摂。

朝倉邸「タウンページで調べても朝倉響子さん・彫刻家とありましたわ。それにこのお宅、窓が小さく、彫刻に強い影が落ちることが少なそうです。
まさに彫刻家の家という感じがいたしますわ」
「ああ、やっぱり!朝倉響子さんのフィオーナとアリアン。あの教育の森公園の彫刻、ベンチに座りたくても座れない威圧感があるやつ」
フィオーナとアリアン全く、この男、アートを見る目がありません。
播磨坂の彫刻については、
「腹筋キツそうぉ」
とか言ってるし、どうやら普通の方とは美的センスが違うようですわ。

播磨坂の彫刻
播磨坂の彫刻「哲学者」掛井五郎氏作

千駄木のおばけ階段

千駄木のお化け階段弥生のおばけ階段と区別するために「千駄木のおばけ階段」または「おばけだんだん」または「へび坂」と、様々な名称がありますが、坂道社長、どうしてでしょうか?

「はいはい、調べてきましたよ(^_^)v」
坂道社長は地図を見せながら説明します。
ここは坂道社長に語っていただきましょう。

はい、坂道社長です。まずは藪下通りの説明板から。

藪下通り
本郷台地の上を通る中山道(国道17線)と下の根津谷の道(不忍通り)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社の裏門から駒込方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道である。「藪下道」ともよばれて親しまれている。
むかしは道幅もせまく、両側は笹藪で雪の日は、その重みでたれさがった笹に道をふさがれて歩けなかったという。この道は、森鷗外の散歩道で、小説の中にも登場してくる。また、多くの文人がこの道を通って鷗外の観潮楼を訪れた。
現在でも、ごく自然に開かれた道のおもかげを残している。団子坂上から上富士への区間は、今は「本郷保健所通り」の呼び方が通り名となっている。
文京区教育委員会  平成7年3月
藪下通り
徐々に下ってゆく藪下通り

観潮楼門跡

観潮楼時代の鴎外先生
観潮楼時代の鴎外先生

江戸川乱歩先生とも関係の深い団子坂上の森鴎外記念館前には、観潮楼の門跡が意図的に残されています。

鴎外先生の古写真を見ると、確かに同じ門の礎石、踏み石が写っています。

この門が面していた藪下通りは、崖上の武家地・寺社地と、崖下の百姓地との境界の道で古くから存在しています。
山手、下町みたいな関係です。

古地図:万延2年(1861年)尾張屋版本郷湯島絵図より赤ラインが藪下通り
万延2年(1861年)尾張屋版本郷湯島絵図より赤ラインが藪下通り
古地図:左:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図 右:昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図
左:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図 右:昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図(クリックで拡大)

左の大正の地図を見ると、藪下通りの崖下に池(青矢印)があります。池は大正初期まで存在し、おそらく、関東大震災の瓦礫で埋め立てられ、この辺りは汐見小学校となっています。
千駄木のお化け階段おばけ階段、おばけだんだん、へび坂、へび道などの名付け親は、ここの小学生でしょう。小学校近くの無名の坂は、小学生によって「トイレの花子さん」に代表されるような都市伝説的名称が付くようです。弥生のおばけ階段も根津小学校の近くですね。

汐見小学校
藪下通りから見る汐見小学校

「なるほどです、坂道社長、さすがですわぁ」
「いやぁ〜それほどでもぉ、(*´σー`) ヘヘ…照れるぅ、デレデレ」

単純な男です。(´д`;)アァ…。

千駄木ふれあいの杜

坂道社長は説明を終え、坂下の黄色いテープの家には気にもとめずに、今度は「千駄木ふれあいの杜」へと向かいます。

千駄木ふれあいの杜千駄木ふれあいの杜
 江戸時代、ここは太田道灌の子孫である太田摂津守の下屋敷で、その当時は、現在の日本医科大学から世尊院あたりまでの広大な敷地でした。
明治に入ると。屋敷は縮小していきます。かつての屋敷跡は「太田の原」と呼ばれ、そこは太田ヶ池がありました。周囲は田園地帯が広がる、大変に風光明媚な場所だったようです。屋敷の近くには森鷗外らの文化人が住まいをかまえ、小説の中にも周囲の風景についての文章が残されています。
文京区役所

この太田摂津守下屋敷は絵画にも描かれていますわ。起伏に富んでいて、さぞかし風光明媚なところだったのでしょうね。

太田備牧駒籠別荘八景十境詩画巻より
太田備牧駒籠別荘八景十境詩画巻 狩野安信作(1661年(寛文元年)9月)

万延2年(1861年)尾張屋版本郷湯島絵図より赤ラインが藪下通り

坂道社長は江戸時代の地図を見せならが言います。

「ワトソ子くん、江戸時代の地図に池は描かれていないけど、太田摂津守下屋敷の庭の池が太田ヶ池と言っていいでしょう。明治初期の地図でもほら!」

古地図:明治13-19年(1880-86年)第一軍管地方2万分の1迅速測図原図より太田ヶ池と藪下通り
明治13-19年(1880-86年)第一軍管地方2万分の1迅速測図原図より太田ヶ池藪下通り

お江戸、明治の考察に関しては一家言持っていらっしゃる坂道社長です。

でも、勘が鋭いわたくしは何か気になります。
こいつ、本題の黄色いテープを避けているような、、、何か企んでいるのかしら?ヽ(≧∇≦)ノキャー♪

 icon-arrow-circle-right 後編へ続く

 


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