「JIN-仁」

「JIN-仁」に出てくる坂道


樹木谷坂の「樹木谷」って?

樹木谷前回のお茶の水坂の調査のときに、これを見てなんとなく気になっていたのいたのです。

樹木谷坂、、、樹木谷?。
あっ!「JIN-仁」だ!

しばらくの間、「JIN-仁」に出てくる地名、樹木谷とは架空の場所だろうと思っていたのですが、樹木谷は、過去に実際に存在したのです!
調査せねば。。。

樹木谷坂説明板

樹木谷坂  じゅもくだにざか
 地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は,東京医科歯科大学の北側の裏門から,本郷通りを越えて,湯島1丁目7番の東横の道を北へ,新妻恋坂まで下がる坂である。そして,新妻恋坂をはさんで,横見坂に対している。
 『御府内備考』には,「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。
 尭恵(ぎょうけい)法印の『北国紀行』のなかに「文明19年(1487)正月の末,武蔵野の東の界……並びに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて,しめの内に武蔵のゝ遠望かけたるに,寒村の道すら野梅盛に熏ず」とある。
 天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社周辺のようすである。
 徳川家康が江戸入府した当時は,この坂下一帯の谷は,樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで,樹木谷坂の名が生まれた。
 地獄谷坂と呼ばれたのは,その音の訛りである。
 なお,湯島1丁目の地に,明治14年(1881)渡辺辰五郎氏(千葉県長南町出身)が 近代的女子技術教育の理想をめざし,和洋裁縫伝習所を創立した。その後,伝習所は 現東京家政大学へ発展した。
 文京区教育委員会 平成10年3月
樹木谷坂
樹木谷坂

漫画「JIN-仁」は現代の医師が幕末のお江戸にタイムスリップして活躍するストーリー。人気TVドラマにもなり、私のお江戸趣味的には、どストライク!。ハマってしまった物語です。

橘恭太郎主人公の仁がタイムスリップ直後に遭遇する事件で、その後、お世話になる橘家の当主、恭太郎が、、、
「わたしは湯島四丁目裏通り、樹木谷に住む、小笠原順三郎支配内、橘恭太郎と申します」
と言っているのです。

では、タイムスリップした時代はいつか?
おそらく樹木谷坂を駆け下り、橘家に入り、橘恭太郎の怪我の手当てを終えた、この場面で、、、

文久2年

文久2年(1862年)と言っています。これは確か情報です。

仁がタイムスリップした辺り
順天堂大学病院と医科歯科大付属病院

主人公の南方仁は過去からタイムスリップして来たと思われる人物とのもみ合いの末、病院の階段から落ち、タイムスリップしてしまうのです。

ということは、仁が勤めていたのは樹木谷坂近くの順天堂大学病院または医科歯科大付属病院?。落ちたところはその構内。

蔵前橋通り
蔵前橋通り

今の蔵前橋通り(新妻恋坂)を境に南北に坂(樹木谷坂と横見坂)が登っているので、ここが谷、かつての樹木谷です。
樹木谷と言われたこのエリアを
文久2年の前年の古地図でみると、、、

万延2年(1861年)改 尾張屋刊江戸切絵図
万延2年(1861年)改 尾張屋刊江戸切絵図

仁がタイムスリップしたところは「江川太郎左衛門掛 御鉄砲鋳場」(A)。
今の蔵前橋通り周辺が湯島四丁目裏通り、樹木谷(C)で南側が武家地で北側が家来衆、残念ながら、そこに橘家の表記はありません。実在したとしたら、小さな屋敷だったのでしょう。

国道17号線(本郷通り、湯島四丁目の表通り)の開通、聖橋も出来て、大きく変貌、お江戸の町割、道割ではなく、坂名表記もありませんが、B地点樹木谷坂D地点が横見坂と思われます。湯島聖堂の敷地もよほど大きかったようです。

昌平坂は三つもあった?

仁の昌平坂

相生坂(昌平坂)

この場面、主人公の南方仁は診療の帰りに神田川沿いの昌平坂を歩いているのですが、ここで辻斬りに襲われ、難を逃れます。

相生坂(昌平坂)説明板

相生坂昌平坂)
神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。
『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。
昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
 
これやこの孔子の聖堂あるからに
幾日湯島にい往きけむはや  法月歌客

文京区教育委員会 昭和53年3月

仁のセリフ昭和53年3月!
やはり、一般名、昌平坂で通っているので、文京区さんも悩んで、放置しているようです。

仁も昌平坂と言ってるし。
この坂は、昌平坂(相生坂)でいいと思うのですがぁ……。

江戸名所百景昌平橋聖堂神田川 歌川広重画
江戸名所百景昌平橋聖堂神田川 歌川広重画
聖橋下から
聖橋下から

今では、上を聖橋が通り、薄暗いところもあるけれども、辻斬りは出ません(≧∀≦)。

聖橋
聖橋

余談ですが、聖橋の名の由来は「湯島堂」と「日本ハリストス正教会復活大堂」(ニコライ堂)間に架かっているので聖橋、粋な由来、粋なデザインです。

この聖橋のお掘側下には大きな石が無造作に置かれているのです。お掘の護岸、船着場の遺構なのか?なんなんでしょう?

聖橋下の石
聖橋下の石たち。

なんだか立方体のようなものもあります。

 もう一つの昌平坂

古跡昌平坂湯島聖堂の東の脇道で、北に登る坂。
お江戸の情緒の濃い坂です。
わたし的には「古跡 昌平坂」と呼んでいる坂です。
だって石柱も立ってますし。
(≧∀≦)
古跡昌平坂

神田明神この坂もサビた雰囲気ありあり!尚且つ、ここを登って左に折れれば神田明神です。イケてます(*´∀`*)。

お茶の水坂を登って、昌平坂(相生坂)、古跡 昌平坂ルートは、神田上水懸桶、湯島聖堂、神田明神など、お江戸を楽しめるお散歩観光コースです。

昌平坂説明板

昌平坂
 湯島聖堂と、東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。
 そこで学問所周辺の三つの坂を、ひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。
 元禄7年(1694)9月、ここを訪ねた桂昌院(徳川五代将軍綱吉の生母)は、その時のことを次の和歌に詠んでいる。

万世の秋もかぎらしもろともに
 もうでて祈る道ぞかしこし

 文京区教育委員会 平成5年3月

こちらの説明板は「古跡 昌平坂」としてはと思うのですが、どうなんでしょ。

万延2年(1861年)改 尾張屋刊江戸切絵図
万延2年(1861年)改 尾張屋刊江戸切絵図

仁が登っている昌平坂は神田川沿いの昌平坂(E地点)。文京区さんは相生坂(昌平坂)としていますが、お江戸の頃も今日も昌平坂と言えばこの坂でしょう。
しかしながら、現在、F地点の昌平坂(古跡 昌平坂)が文京区公認になっています。

江戸名所図絵より湯島聖堂と昌平坂
江戸名所図絵より湯島聖堂と昌平坂(古跡 昌平坂)。クリックで拡大。

江戸名所図会では右端に、聖堂の脇道(古跡 昌平坂)を昌平坂と表記しています。
こういう資料もあるので、判断が難しいわけです。

船着場余談ですが、
その近くの神田川に番所らしき建物と川への降り口が描かれています。
屋形船と荷船、大八車も。
荷物輸送用の降り口は別にあってオモロです(≧∀≦)。

神田川
昌平橋から神田川を見る。この近く右側に船着場があったはず。

神田川沿いの昌平坂は、相生坂とも呼ばれてるのですが、対を成す二つの坂を相生坂と呼ぶパターンが良くあります。

淡路坂

この場合は神田川対岸、千代田区の淡路坂と対を成しています。二つの坂両方とも相生坂と呼ぶので混乱してしまいます。

上:新宿区の相生西の坂、下:相生東の坂
上:新宿区の相生西の坂、下:相生東の坂

新宿区にも平行する相生坂があるのですが、そちらのほうは相生西の坂、相生東の坂と呼んで区別しています。

三つ目の消滅した昌平坂

三つ目の昌平坂は寛政期の湯島聖堂の拡張で聖堂の敷地に組み込まれ、完全に消滅しています。

shouheizaka
寛政新版江戸安見図(1797年)より「しやうへい坂」。

この寛政の地図では「しやうへい坂」と表記されている坂は神田明神へとまっすぐ登っていますが、聖堂が東側に拡張され、現在の昌平坂(古跡 昌平坂)が出来ることとなります。

消滅した昌平坂
湯島聖堂内。ここが消滅した昌平坂っぽい。

一時は平行して2本あったようですが、仁がタイムスリップした文久2年(1862年)には、今と同じ道割だったと思われます。

勝海舟の坂道

漫画「JIN-仁」第1巻のラスト、橘家を訪れた勝麟太郎(勝海舟)が坂道を下りて帰っていく名シーン。

勝海舟の坂道

この坂道、橘家のシュチエーション(湯島四丁目裏通り)、通りへの道割からみて、横見坂(富士山を横目で見るから)かと思われるのですが不明です。
富士山が描かれていれば間違いないのですが。
しかしながら、よく取材された物語で感心してしまいます。

横見坂
横見坂

ところで、小笠原順三郎はいたのか?

橘恭太郎ところで、最初に恭太郎が「小笠原順三郎支配内、橘恭太郎」と言っている「小笠原順三郎」が気になります。

ググると、、、
「小笠原家 小笠原順三郎 石高5,000石 領地は安房下総上総」
と出てきます。なんと!実在した人物のようです。

ウィキの千駄木の項目に
「旗本小笠原順三郎邸など、かつて坂上に徳川家康に仕えた武家の屋敷があり、お屋敷街となる。」
とあり、時代の近い古地図で探すと、、、

安政3年(1856年)根岸谷中日暮里豊島辺図より小笠原
安政3年(1856年)根岸谷中日暮里豊島辺図より小笠原。
千駄木の団子坂
千駄木の団子坂

この地図の団子坂近くに「小笠原」表記があるお屋敷街があります。
近くには「小笠原左京太夫抱屋敷」とありますが、こちらは大名屋敷です。
なので「小笠原」が小笠原順三郎の屋敷に間違いないでしょう。

橘恭太郎も彼の上司小笠原順三郎も文京区民だったのかぁ。私と同じで、そこはかとなくうれしい。

仁も文京区民だったのかもしれません(≧∀≦)。

 

 


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