蛙坂

切支丹屋敷近くの蛙坂は本当に「カエル坂」か?


文京区公認キリシタン坂で述べたようにこの蛙坂(カエル坂)、お江戸の中頃は蜥坂(トカゲ坂)と呼ばれていたらしいのです。確かに、緩やかに描くS字カーブはトカゲの尻尾の形状を連想させてくれます。
以前、この坂で工事中の満載トラックがスリップしてなかなか登れない光景を目にしました。そのくらい急坂で、きびしいイメージです。なのでトカゲ坂のほうがシックリくるのにと、いつも私一人だけで思っています。

明治の地図をみると、、、

うっ!、また地図の間違いを発見してしまいました。

明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より

蛙坂の位置(赤線)に、藤坂?。ほんとの藤坂青線のところ。これは明らかに作成時の間違いですね。
だってCの藤寺伝明寺が林泉寺になってるし、坂、お寺ともセットで位置を間違えています。

しかし何故、間違えられてしまったのか?
どうしても本名を改名をしたいという思惑に引き寄せられたような。または坂の名前がいくつもあり、どれにしようかと混乱してしまって。

キリシタン坂と呼ばれていた坂は今では庚申坂となっているし、跡形もなく消滅しているキリシタン屋敷同様、屋敷に通じたこの坂の本名も消したかったのではないかと疑ってしまします。

余談ですが、、、
間違えられた林泉寺の「しばられ地蔵」もよく間違えられます。

しばられ地蔵
林泉寺のしばられ地蔵。ときどきダイエットします。
大岡政談のしばられ地蔵
享保の頃(1716~36)の夏、呉服間屋の手代がお地蔵さんの前で一休み。ウトウトして目がさめると、荷物の反物がない。
手代はさっそく奉行所に訴え出た。
町奉行の大岡越前は、「盗みを見すごすとは、地蔵も同罪である。縄打って引っ立てて参れぇ〜!」と。
お地蔵さんは荒縄でぐるぐる巻きにされ、奉行所へ。
見物に来た江戸っ子たちはぞろぞろと奉行所へ入って行く。
大岡越前は、「奉行所のお白州へ乱入するとは不届至極、その罰として反物一反を納めよぉ〜!」
野次馬たちは驚き、なんとか工面して反物を持ってくる。
その中から盗品の反物を発見し、盗人は御用となった。

大岡政談に出てくる「しばられ地蔵」は葛飾の南禅院のお地蔵さんとなっていて、林泉寺のそれとよく間違えられます。

古来より「盗難や失せ物があると、地藏尊に縄をかけ、願いがかなうと縄をほどく」 と言う風習があり、しばられ地蔵は各地にあります。

大岡政談の話も中国の古い話(北宋の名判官の故事)に元ネタがあり、すべてフィクションなのです。話を元に戻して、、、

文京区の坂道説明板をみると、、、

蛙坂説明板

「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)
 『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。
 なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂に通じている。
平成12年3月
文京区教育委員会

復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」って、理由の詳細はわかりませんって歯切れが悪すぎるぅ!
何か隠しているような気がします。

私の考察では、この坂はキリシタン屋敷の裏門、もしくは裏門近くにあたるので(どこが裏門であったか今では特定できませんが)、復帰の復の字を使ったのかと想像できます。
隠れキリシタンが改宗し、社会復帰するときは裏門から出て行ったのかと妄想しております。復坂は「帰る坂」か?
キリシタン屋敷に関して、あまり語りたくない幕府サイドの表記と考えると、この妄想は意外と当たっているかもしれません。
復坂」のほうがメインで「蛙坂」は後付けネームかもしれません。

キリシタン屋敷に関しては以下をご参照ください。

文京区公認キリシタン坂の怪
切支丹屋敷とシドッチ神父

もうひとつの「御府内備考」では 「この坂で左右の蛙の合戦があった」と言っています。
古地図をみると確かに「ババ」とあり、古池があった馬場六之助様御抱屋敷は存在したようです。(青線が蛙坂)

天保十四年岡田屋版
天保十四年(1843年)岡田屋 御江戸大絵図

 もう一度、明治の地図でみると、、、

明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より

馬場六之助様御抱屋敷だった位置(A)に小さな池があります。
坂の東の方には、、、?。池がありません。

よく見ると西側のお隣の坂に、もと戸田淡路守の屋敷内に、もっと大きな池(B)が二つ描かれています。この坂のほうが、二つの池のカエルが源平合戦?しそうです。
(江戸時代の地図には詳細がなく、時代の近い明治初期の地図は謎の解明にたいへん重宝します)

そちらの坂へ走ると、、、

無名の坂

こっ、これは何?古い欄干?
しかし、橋の跡ではなさそうです。そうか、古いガードレールなのか。

坂の古いガードレール
坂の古いガードレール

池への転落防止用だったようです。それにしても石造りに鉄パイプの立派なものです。

ガードレール下の住宅地
ガードレール下の住宅地

ガートレールの下の住宅地は池を埋め立てたところだったのですね。坂の脇に大きな池があったのです。
大きな池の一つは昭和30年代まで存在しています。

昭和30年代の池

御府内備考の「坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり」を坂の西の方と言い換えればこの坂が蛙坂になるような。
わたくし的には、この坂のほうが本当の蛙坂に思えてなりません。

キリシタン屋敷、S字急坂のイメージから、蛙坂の本名はトカゲ坂、または復坂ではないでしょうか?

蛙坂(坂下より)
蛙坂(坂下より)

清水谷、茗荷谷という地名、今ではあまりピンと来ませんが。

高架の丸ノ内線

ましてや、深い谷の中、高架を走る丸の内線の開通で変貌しているのですが、古い地図を見たり、古い痕跡を探すと確かに、ここが湿地帯であったことがわかります。
獄門橋が架かっていた小川さえあったことも理解できます。

 


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