いだてん・金栗四三「八年ぶりの挑戦」

いだてん・金栗四三「八年ぶりの挑戦」

金栗四三と播磨屋の足袋職人・黒坂辛作は二人三脚でマラソン用足袋の研究開発をすすめ、ゴム底、靴ヒモの画期的な足袋を完成させます。

秋葉・金栗一行

大正八年(1919年)八月、金栗四三は秋葉裕之とともに下関〜東京20日間1200キロ走破に成功。このとき、金栗は足を痛めることもなく、たった一足の足袋で走りきっています。

金栗足袋の誕生

進化したマラソン足袋

辛作は、この足袋を「金栗足袋」と命名。
辛作は金栗に一筆書きます。
金栗さんの名を辱めることのないように、決して商品製造に手をぬかず、精進致します
金栗は、微笑み、こころよく、これを認めます。

「金栗足袋」の商標登録を済ませて売り出すと、日本全国のランニング愛好家ら百万人以上が愛用したと云われる大ヒットとなります。

その商品コピーはというは……

① 本ランニング足袋は金栗先生の実験指導により、改良を加えて完備を期した良品なり。

② 大正八年夏、金栗、秋葉先生が下関・東京七百五十マイルを本ランニング足袋にて走破せられ、その耐久力を事実に証明せられたり。

③ 本ランニング足袋は軽快にして履き心地よく、足を痛めず、かつ廉価にして遠足用にも適当の良品なり。

アマチュアリズムの問題をうるさく言わなかった時代のこと。こんなネーミング、コピーも許されます。

マラソン足袋マラソン普及のために日本全国を走り、講演を行う金栗の知名度、宣伝効果は抜群。ランニングだけでなく、登山、ハイキング、レジャーにも利用され、いつしかランニングといえば金栗足袋。シューズのようであり、日本人が長年馴れ親しんだ足袋のようでもあり、金栗足袋は日本国民に広く受け入れられ、一般名詞化するほどに。

以後、大塚仲町の播磨屋足袋店は、金栗足袋のKKハリマヤとなって、大きく成長することとなります。

黒坂ビル
播磨屋があったところ、黒坂ビル。
金栗足袋発祥の地
金栗足袋発祥の地のプレート。

ストックホルムでは苦杯をなめ、ベルリンは中止。最初の挑戦から八年、金栗はこの「金栗足袋」で次のオリンピックに挑むことになります。

八年ぶりのオリンピック、嘉納治五郎の奮闘

嘉納治五郎第一次世界大戦は終結、平和な時が訪れ第七回オリンピック・アントワープ大会が開催されることとなります。IOCオリンピック総会では、ストックホルムで死亡者を出してしまったマラソン競技の中止を訴える国もありましたが、IOC東洋唯一の委員である嘉納治五郎はマラソンの開催を強く望みます。
金栗らが全国普及に努めているマラソンです。治五郎先生も後に引くことは出来ません。スタート時刻を変更して、涼しい時間に開始するということでなんとか開催にこぎつけます。

アントワープ・オリンピック国内予選会

第七回オリンピック・アントワープ大会の国内予選会はまず地方予選を全国十ヶ所(札幌、仙台、東京、新潟、名古屋、大阪、松江、岡山、広島、福岡)で開催。
これには、なんと3600名が参加します。

大正八年四月十八日付け東京朝日新聞より
大正八年四月十八日付け東京朝日新聞より。

地方予選を勝ち抜いた全国の198名が東京駒場で本選を争うことになります。八年前のストックホルム・オリンピック予選会、あの頃に比べるとマラソン、スポーツ全般に対する意識は高まっています。

金栗は、日本全国を走ることで、ますます持久力を高めていますが、過剰な頑張りでケガをするのがアスリートの常。この頃の金栗は足首にバクダンを抱えています。加えて扁桃腺炎を患い、完治も間もない頃。体調不良、不十分な練習。
それでも八年ぶりのチャンスを逃すわけにはいきません。金栗は参戦を決意します。

マラソン予選会

古地図:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より東京帝国大学農学部運動場
古地図:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より東京帝国大学農学部運動場(クリックで拡大)。

駒場の東京帝国大学農学部の運動場から調布の車返までを往復する25マイルのコース。

大正九年(1920年)四月二十五日、午後12時40分、レースはスタートします。折返し点までは広島の地方予選を勝ち抜いた会社員・林が先頭を切ります。続いて、箱根駅伝を走った早稲田の三浦、劇的な逆転劇を演じた東京高師の茂木、金栗の順。
折り返して調布字金子あたりで、後半に強い金栗が先頭に立ち、三浦、林、そして札幌予選を勝ち抜いた期待の新星、中学生の八島が追い上げ、茂木とつづきます。広島の林は徐々に落ち、ゴール間近、箱根駅伝のときのように茂木がラストスパート!三着に入ります。

結果、体調不良を訴えていた金栗ですが、日本マラソン界・第一人者の地位は揺るがずに優勝。なんと、このときも五着までがオリンピック記録を上回ります(のちに参考記録)。

大正八年四月二十六日付け東京朝日新聞より

一ツ橋の学士会館(二代目・昭和の初めの竣工)。
一ツ橋の学士会館(二代目・昭和初めの竣工)。

代表決定その夜、大日本体育協会の役員が一ツ橋の学士会館に集まります。予選会の結果、推薦も考慮の上、協議。アントワープ・オリンピックの出場種目・代表選手の選出を行います。

マラソンに加え、百、二百、四百、八百、千五百、五千、一万メートル、近代五種・十種競技、水泳、庭球の計十八名の内定が決まります。

マラソン代表の四人
四人のマラソン代表選手。
上・金栗四三(東京高師OB・体育協会)三浦弥平(早稲田)
下・茂木善作(東京高師)八島健三(小樽中学)
大浦留市
大浦留市(東京高師)

箱根駅伝を走った二人の大学生がマラソン、五千・一万メートルでは箱根駅伝で五区を走った「初代山の神」東京高師の大浦留一が優勝、選出され、ここでも金栗の門下生、金栗効果が出たと協会は喜びます。
が、しかし、ご本人・金栗は体調不完全ながらも自分が優勝してしまった怪物、若干の不満をおぼえています。
金栗はもう三十歳。陸上選手のピークは過ぎ、ベテランの域に達しています。

わたしの使命は後進の選手を育てることだ。お国のため、わたしを超えて行ってくれ……

若者を率いてアントワープへと向かいます。

「アントワープの微笑み」へとつづく

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