幽霊坂

【謎解き】古地図で解く千代田区富士見の三つの幽霊坂⁈

JR飯田橋駅神楽坂口から南へ行くと、千代田区富士見。ここは江戸城外堀の牛込御門内で、言うなれば、もう江戸城内。

JR飯田橋駅神楽坂口の牛込御門遺構。
JR飯田橋駅神楽坂口の牛込御門遺構。
古写真:牛込御門。
古写真:牛込御門。
維新直後の古写真:田安門。
古写真:田安門。

JR飯田橋駅神楽坂口近くの日本歯科大学附属病院前には旗本屋敷の遺物があるほどに、町人地は非常に少なく武家屋敷が連なり、メインの通り(現・早稲田通り)は江戸城北の丸の田安門(現・日本武道館への入口)へと繋がっています。

日本歯科大学附属病院前の武家屋敷の遺物。
日本歯科大学附属病院前の武家屋敷の遺物。
旗本屋敷跡説明板
クリックで拡大。
文久二年(1862)東都番町大絵図より外堀の牛込御門と江戸城北の丸の田安門
文久二年(1862)東都番町大絵図より外堀の牛込御門と江戸城北の丸の田安門(クリックで拡大)。

この小役人宅の密集地、牛込御門の近くには三つも幽霊坂が存在します。

三つの幽霊坂
三つの幽霊坂

なぜ、こんなに多くの幽霊坂があるのでしょうか?

古い二つの幽霊坂

幽霊画このうち二つ()は江戸時代からのものです。
たとえ江戸時代といえども幽霊がいると信じる人は少なく、ふつう、幽霊坂は目立たないところにあるゴミ捨て場、ゴミ溜めのことです。
幽霊画を掛軸にして飾るのも魔除け、空き巣泥棒除けの意味があるように、坂道にも危険を除けるために「幽霊」という言葉を使っています。

子供を危険なところ、不潔なところ、または乞食同然の人々が住むようなところに近づけさせないようにと、そこを、おどろおどろしく幽霊坂と呼びます。
その幽霊坂の近くには町人地があってメインの通りからは見えないように坂下にゴミ溜めを設けて町人が利用しました。

ここは昌平橋近く、駿河台の幽霊坂と同様に、旗本御家人の小さい武家屋敷が乱立していて、自家の敷地内にゴミ穴(ゴミ捨て場)を持てない小役人が利用したようです。

幽霊坂❶坂下から
幽霊坂坂下から。
幽霊坂❷坂上から
幽霊坂坂上から
文久二年(1862)東都番町大絵図より幽霊坂❶と❷
文久二年(1862)東都番町大絵図より幽霊坂。矢印方向に向かって坂下へと下っています。

面白いことに明治初期の地図を見ると、幽霊坂が行き止まりになっていて、坂道というより低地のごみ溜め、ゴミ集積場の風体をなしています。

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より。矢印に向かって坂下。

幽霊坂の坂下をみるとメインの通りまでまっすぐに続き丸見え。ゴミ坂の機能を果たしていません。

幽霊坂❷坂上から見る
幽霊坂坂上から見る。

角川書店本社の脇を通るこの坂の坂下には、江戸時代、ごみ溜めはなく、この幽霊坂を一度登り、幽霊坂のゴミ溜めへゴミを捨てた坂道で、二つの坂道をセットで幽霊坂と呼んだようです。

幽霊坂❶から坂下方向を見る
幽霊坂から坂下方向を見る。

幽霊坂の坂上から坂下方向を見ると、坂下は見えないほどに落ち込んでいて、ゴミ溜め隠しの幽霊坂としては理想的な地形と言えます。

三つ目の幽霊坂

幽霊坂❸坂上から
幽霊坂坂上から。

なぜ、ここが幽霊坂と呼ばれているのでしょうか?
江戸時代、ここには坂道がなく、近世でも法政大学の敷地内でした。この坂道が法政大学の跡地内に開削され住宅地になるのは昭和30年代のことです。

古地図:文久二年(1862年)東都番町大絵図より。無かった幽霊坂❸
古地図:文久二年(1862年)東都番町大絵図より。無かった幽霊坂
左:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より 右:昭和30-35年(1955-60年)1万分の1地形図より。
左:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より 右:昭和30-35年(1955-60年)1万分の1地形図より(クリックで拡大)。

ここはゴミ溜めではなく、私道のため、人々を入れないようにと幽霊坂と呼んだようです。現代版「立入禁止サイン」としての「幽霊坂」です。

幽霊坂❸坂下から
幽霊坂坂下から。

ゴミ坂を考察した以下のページもご参照ください。

幽霊坂とはゴミ坂のこと⁈

もとはもっと多くのゴミ坂が存在したはずですが本名を隠しているケースもあり、ゴミ坂探しも面白いものがあります。

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