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お江戸のカタストロフィ・落語「永代橋」の舞台を行く

隅田川に架かる永代橋。今の橋は四代目。初代は元禄十一年(1698年)、二代目は文化五年(1808年)に架け替えられ、三代目は明治三十年(1897年)、日本初の鉄橋として架橋されましたが関東大震災で痛み、その北側のお隣に今の橋が大正十五年(1926年)に架けられました。

三代目と四代目の永代橋。
三代目と今の四代目の永代橋。

この噺は初代の橋に起きた実話を元にしたものです。

永代橋

文化四年(1807年)八月十五日に行われるはずだった深川八幡の御祭礼。雨で延びに延びになり、やっと晴れた十九日に執り行われることになります。

渓斎英泉画「東都永代橋の図」。
渓斎英泉画「東都永代橋の図」。
江戸時代、日本橋川脇のこの道の突き当たりに永代橋があったようです。
江戸時代、日本橋川脇のこの道の突き当たりに永代橋があったようです。
右の豊海橋の向こうに永代橋が見えます。
江戸時代の永代橋西詰め。右の豊海橋の向こうに今の永代橋が見えます。

神田大工町に住む武兵衛も物見遊山で散財しようとやって来ますが、永代橋のたもとは押すな押すなの混み合いで、身動きができずにいると、スリに遭ってしまいます。

文化江戸図より永代橋、神田大工町、新川付近。
文化江戸図より永代橋神田大工町新川付近(クリックで拡大)。

一文無しになり、仕方なく帰ろうとすると、新川に住む知り合いの「山口屋」さんにばったり出会います。
この混雑に深川の八幡様に行くのを諦めた山口屋さんに、

うちは近いですから、うなぎでもつまみながらチビチビやりましょうかぁ

と家に招待され、二人で呑んでいると、人の重みで永代橋が落ちたとの知らせがщ(゚Д゚щ)。

外は大変な騒ぎですよ、まあ、今日のところはうちに泊まってきなさいな」と言われ、翌日朝から呑み直し、お小遣いまでもらい、イイ気持ちになって長屋に帰ってまいります。
すると家主の多兵衛が、うおさおと長屋を走りまわっています。

大家さん、どうかしたんですかぁ?
おぉ、武兵衛、おめえ、祭りに行ってたなぁ、まあいい、ちょうど良かった、一緒に来い!
どっ、どこへすかぁ?
おめえ、昼間っからぁ酔ってやがんなあ、だからこんなことになるんだっ
えへぇ〜どうもぉ
笑ってる場やいかっ、今朝なぁ、奉行所からこんな差し紙(通知)がきたんだ
と言ってその差し紙を見せます。そこには、

神田大工町・家主多兵衛支配店・武兵衛
水死に付き 引き取りに参れ

と書いてあります。

えっ(*’д’*)、あっし、死んだんですかい?
あぁ、橋から落っこって死んじまったんだ、お上が引き取りに来いと言うんだ、本人が行けば間違えがねえだろう、行くぞっ
と二人は奉行所へと歩いて行きます。

う〜ん、どうも死んだ気がしねえんですけどねえ
馬鹿やろっ、おめえ、初めての死だろっ、初めての死で人の死んだ心持ちがわかるわけがねえっ、死んだくせに生意気だ!少し後ろを歩けっ!

奉行所に着き、武兵衛が武兵衛の遺体と対面します。

えっ、これがあっしの遺体ですか?、あぁ〜こんな姿になるんだったら先月無理して家賃払わねえで美味しいものでも食っておくんだったなぁあ〜 (p_q、)
馬鹿やろ!まだ四つもたまってるっ
お香典ください
家賃と帳消しだっ
ん〜ん、ちょっとぉ顔が長くないですか?
水に浸かって伸びたんだ
こんなところにホクロあったかなあ?
死ぬ時にホクロの一つや二つできることもある
着物も違いますけどおぉ?
大勢で亡くなったんだっ、落ちてく間に、こっちの着物があっちの着物と入れ替わることだってあるんだっ、さっさと引き取れっ、独り者なんだから自分のことは自分でやれっ
えー、これは重そうだなぁ、じゃあ、こっちの軽そうなのを
馬鹿やろっ、魚買いに来たんじゃねえんだぞっ、ボカッ
と頭を殴られ、言い合いになってしまいます。
この言い合いの仲裁に入った役人が理解します。

武兵衛のスラれた紙入れ(財布)が遺体の懐から出てきたのでスリが代わりに死んでくれたようなものだと判明します。紙入れの中に名札があったので多兵衛のところへ通知が行ったのです。

まだ口論している二人に役人が言います。

武兵衛、そのほう、お前の負けじゃ
へっ?なっなんでですか?
多兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわん

 橋上の機転が大勢の命を救う
文化四年(1807年)八月十九日に起きたこの悲劇、永代橋崩落事故では、その日のうちに198名の水死が確認され、一説には計千人以上が犠牲になったと云います。その後いく日もの間、下流に下駄が流れてきたと云うほど。

それでも犠牲者は少なかった方だろうと云われていますが、それはなぜかというと。

その時、たまたま橋上にいた町奉行所同心、渡辺小左衛門という侍が橋の異変に気付き、欄干につかまりながら刀を抜き、白刃をキラキラと頭上で振り回し「斬るぞぉ斬るぞぉー」と叫んだため、後から押し寄せる群衆は「喧嘩だ!ケンカだぁ!」と後ずさりしたため、橋の崩落箇所(深川側から四・五つ目の橋脚部)からの将棋倒しのような転落が止まったと云います。

文化四年八月富岡八幡宮祭礼永代橋崩壊の図
文化四年八月富岡八幡宮祭礼永代橋崩壊の図(クリックで拡大)。

架橋されてから百九年目の大事故。
老朽化も甚だしいものがあったようです。

実在した武兵衛

実はこのお噺の「武兵衛」には実在したモデルがいました。

隅田川を船で通りかかり、偶然、この惨劇を見ていた当代一の文人、大田南畝(1749年ー1823年)は、その記録集、当事者へのインタビューなどをまとめた「夢の憂橋」なる著作をものしています。

その本の中で、祭礼に行く途中、二両二分スラれ、スリの水死体から自分の紙入れが出てきたため、自分が水死と奉行所に間違われたという稀有な体験をした人、本郷に住む麹屋武兵衛の話が載っています。
この話を元に落語にし、カタストロフィを笑いで吹き飛ばてしまう。そんな文化が、お江戸にはありました。

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洲崎神社の几号水準点

東京メトロ東西線木場駅からすぐ。洲崎神社(洲崎弁天)の鳥居をくぐり、境内に入ってすぐ左に波除碑(なみよけひ)があります。

洲崎神社境内
洲崎神社境内。

波除碑とは、

寛政三年(1791年)、高潮が発生。深川、本所一帯が被害を受けました。寛政六年(1794年)頃、幕府が州崎神社の西側を買い上げ空き地にし、 その境界に当たる二カ所に波除碑を立て、ここより海側に人が住むことを禁止しました。

波除碑
波除碑。この碑の裏側に几号水準点があります。

材質が砂岩のため、もともともろく、大正12年(1923年)の関東大震災 や1945年の空襲による破損もひどく、碑文が殆んど読めませんが、

葛飾郡永代浦築地
 此所寛政重三年波あれの時、家流れ人死するもの少なからず。此後高なみの変ハかりかたく流死の難なしといふべからず。是によりて、西ハ入舟町を限り、東ハ吉祥寺前に至るまで、凡長弐百八拾五間余りの所、家居とり払ひ、あき地になしをかるゝもの也
 寛政六年甲寅十二月

と書いてあったそうです。

几号水準点は、この台座の裏側にあるのですが半分埋まっているのと、後ろの塀が邪魔でうまく写真が撮れません。

波除碑裏側

波除碑の几号水準点
波除碑の几号水準点。

かなり傷んでいます (T-T)。

公的資料:地理局雑報にある記載
洲崎辨天門前碑 1.1848m

几号水準点って何?を参照

明治の地図を見ると、

古地図:明治20年(1887年)東京実測図より洲崎神社
古地図:明治20年(1887年)東京実測図より洲崎神社。海沿に三角点のマークも確認できます(クリックで拡大)。

今では、埋め立てが進み、洲崎神社は海から遠くの内陸ですが、明治初期には海際でした。
父が子供の頃、おばあちゃんと一緒に、根津から木場まで、歩いて海釣りに行ったと言っていたことを思い出しました。

愛宕山から見れば、洲崎は東京湾の向こうの海際。ここに几号水準点を置いたことが理解できます。

撤去等で年々、数が少なくなっています。撤去されていたら、ご報告ください。

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