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都会に残る鎌倉街道をゆく4 ジブリの駄菓子屋、雑司ヶ谷鬼子母神編

鬼子母神参道入口鎌倉街道の関所があったという宿坂を登り、大きな目白通りの向こう側に細い古鎌倉街道は続きます。

この細さは、この道が人馬のためのものであったことを物語り、また古い街道は緩く曲がり決して真直ぐには伸びてはいない。

古鎌倉街道

そんなことを思いながら進むと、都電の踏切という懐かしい光景に遭遇します。

都電荒川線の踏切

都電と踏切のある風景

都電荒川線昨今、鉄道と交差する車道は立体交差になり、踏切は少なくなりました。
この都電荒川線は大通りが出来たせいか、この道に入ってくる車は少なく、都電の本数もまばらで、昔よく言った「開かずの踏切」では決してありません。

そして、のんびりと穏やかな情景が展開されます。
様々なカラーリングの都電が走り、鉄ちゃん、鉄子には嬉しいショットが撮れます。

都電踏切

踏切を渡り進むとY字路にあたります。
古鎌倉街道は鬼子母神の参道の方へと続きます。本来の古鎌倉街道は法明寺の脇を通るルート。

雑司ヶ谷鬼子母神の成立は室町時代と考えられ、その頃から街道が参道になっています。

古鎌倉街道のY字路

欅並木の参道

この参道は江戸時代、お土産屋、料亭(料理屋)で賑わったところです。

ちょうどY字路の角には、かつて、料亭「茗荷屋」があり江戸料理屋番付に載るほどの人気料理屋でした。

料理屋番付(雑司ヶ谷茗荷屋)
江戸の料理屋番付。クリックで拡大。

豊島区の資料によると、茗荷屋をはじめ、蝶屋、耕向亭、武蔵屋、萬屋判助、松屋、伊勢屋、常陸屋、福山、桝屋などが軒を並べ、文化文政期には文人墨客が酒宴や書画の会を楽しむ場となりました。

金剛寺坂坂上に住んだ当代一の文人、大田南畝も通っていたようです。幕末になると、彰義隊がその結成過程において茗荷屋で会合を持ったという話もあります。

古写真:王子の扇屋
古写真:王子の扇屋

料理屋番付王子扇屋料理屋番付の上位にある「王子の扇屋」は、幕末に、フェリーチェ・ベアト(1832年 – 1909年)が、流れる音無川と一緒に撮った古写真が残っており、「雑司ヶ谷の茗荷屋」もこのようなものだったかと想像します。

いくつもあった川口屋

鬼子母神門前
鬼子母神門前。赤矢印が茗荷屋。が三つの川口屋。クリックで拡大。

この豊島区の資料によると「川口屋」が三軒あります。「川口屋あめや」と「川口屋だんごや」が二軒。

江戸名所図会にも鬼子母神境内に「あめや」が数件描かれ、「川口屋」が多いとわざわざ記されています。これはいったいなぜでしょうか?

川口屋あめや(江戸名所図会より
川口屋あめや(江戸名所図会より)。クリックで拡大。
正徳の頃(1711〜1716年)、丑之助なるものが鬼子母神境内で当時は高級品だった切り飴を売り出します。近くを流れ、豊かな農耕をもたらす弦巻川(つるまきがわ)を愛でて、屋号を「川口屋」とし、家紋は弦巻川の「つる」から採って「鶴の丸」。
この川口屋は、たいそう繁盛し、それにあやかり名代を借り、川口屋を名乗る店が続出したと。

どの川口屋の系列かはっきりしないと豊島区の資料では言っていますが、今も境内には1781年(安永10年)創業の「上川口屋」が残ります。

1781年でも古いと思っていましたが、そのルーツは1710年代とは驚きです。

上川口屋
上川口屋

この店舗は現在、駄菓子屋を営んでおり、日本一古い駄菓子屋として有名です。

ジブリの映画「おもひでぽろぽろ」の駄菓子屋のモデルになっています。

おもひでぽろぽろ

ジブリの駄菓子屋は、この上川口屋そのものと言って良いくらい似ていますが、私の思い出にある昭和の駄菓子屋とは、少し違うような気がします。

それもそのはず、この店舗は明治の造りで、関東大震災も戦災も乗り越えてきた建物です。

雑司ヶ谷鬼子母神

雑司ヶ谷鬼子母神堂

雑司ヶ谷鬼子母神堂

鬼子母神の由来は以下のように伝わっています。

鬼子母神のご本尊は室町時代の永禄4年(西暦1561年)、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神境内にある三角井戸)でお像を清め、東陽坊(後、法明寺に合併)という寺に納めたものです。
 東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。

その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正6年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。

星の井と云う三角井戸

鬼子母神ご本尊を清めた星の井とはどんなものだったのでしょうか?

星の井(江戸名所図会より)
清土星の清水(江戸名所図会より)クリックで拡大。

江戸名所図絵にも鬼子母神のお像を清めた三角形の井戸が描かれています。清土鬼子母神に行ってみると、今も三角形の井戸があります。

清土鬼子母神の星の井
清土鬼子母神の星の井
鬼子母神出現の地の碑がある清土鬼子母神
鬼子母神出現の地の碑がある清土鬼子母神

清土(文京区目白台)は古代から古墳文化を持つ人々が住んだ地で、掘り出されたのは土偶か古墳の副葬品かもと、ロマンを感じつつ、想像してしまいます。(目白坂の謎の碑の項参照)

武芳稲荷

資料によると「稲荷の森」と呼ばれていた頃、鬼子母神のご本尊は境内の武芳稲荷に祀られていたようです。

江戸名所図会の「いなり」がそれで、今ではエクザイル風(鳥居が幾十にも重なる)の鳥居に彩られています。

雑司ヶ谷鬼子母神と法明寺(江戸名所図会より)
雑司ヶ谷鬼子母神と法明寺(江戸名所図会より)クリックで拡大。
現在のお堂は、本殿が寛文4年(1664年)徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。

江戸の物見遊山の地

江戸の中心地を千代田区、文京区、中央区とすると、雑司ヶ谷鬼子母神は郊外にあたり、日帰りの物見遊山(Oneday trip、リクエーション、ハイキング)が盛んだだったようです。

江戸切絵図を見ても緑の深いエリアで、雑司ヶ谷八景なる名所もあったそうです。

嘉永七年(1854年)安政四丁巳年(1857年)改 尾張屋刊 雑司ヶ谷音羽図
嘉永七年(1854年)安政四丁巳年(1857年)改 尾張屋刊 雑司ヶ谷音羽図

日帰り旅行、ハイキングが盛んだったのは、鬼子母神のご利益、風光明媚だったことがあります。観光地として有名になると、次に、ご当地のお土産が生まれます。

鬼子母神名物

すすきみみずく鬼子母神は殊に子宝、子育てにご利益があったので、お土産も子供のためのおもちゃ系。中でも有名なのが、薄(すすき)みみずく。ジブリの駄菓子屋にも描かれています。

今は途絶えてしまいましたが風車が有名だったようで江戸名所図会に描かれています。

風車売り(江戸名所図会より)
鬼子母神の風車売り(江戸名所図会より)

江戸名所図絵では、みみずくのほかに「風車」「角兵衛獅子」が有名と云っています。「角兵衛獅子」とはどのようなものなのかと思い探すと、参道の観光案内所で見ることができました。

みみずくと風車
薄みみずくと風車
角兵衛獅子
藁作りの角兵衛獅子。

都会に残る古鎌倉街道の終点

江戸名所図会を見てもわかるように参道はここで直角に曲がり、鬼子母神へと続きます。

古鎌倉街道終点

法明寺
法明寺

本来の鎌倉街道は参道を真っ直ぐ伸び法明寺の脇を通り、池袋から王子へと続いていたとされます。
この先の池袋は昔は池袋村でしたが今では渋谷、新宿に並ぶ大都会。古道の痕跡はほとんど残っていません。

高田の馬場から鬼子母神は、都電荒川線同様、都会に古道が残った稀有なエリアです。都電も古鎌倉街道も長く残って欲しいものです。(完)

※このシリーズの古鎌倉街道の道筋は寛延4年(1751年)、酒井忠昌により著された「南向茶話」に寄ります。

 頼朝伝説、堀部安兵衛の
鎌倉街道を行く1(新宿区編)

❷ 太田道灌、山吹の里の
鎌倉街道を行く2(豊島区前編)

 鎌倉街道の関所があった
鎌倉街道を行く3 宿坂(豊島区後編)

 江戸情緒の濃い鬼子母神
鎌倉街道をゆく4 雑司ヶ谷鬼子母神編

古鎌倉街道道筋

 

鎌倉街道を行く3 関所があった宿坂(豊島区後編)

頼朝伝説と堀部安兵衛の新宿区早稲田、太田道灌の面影橋、砦のような造りの寺社など、遠い昔の古鎌倉街道に想いを寄せ、観てきましたが、ここ金乗院前も街道色の濃い地であり、深い歴史に彩られています。

 icon-arrow-circle-right 鎌倉街道を行く1(新宿区編)
 icon-arrow-circle-right 鎌倉街道を行く2(豊島区前編)

宿坂(江戸名所図会より)
宿坂(江戸名所図会より)。残念ながら観音堂は今はない。クリックで拡大。
宿坂宿坂
 中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる所が、このあたりにあった。この坂の名が、宿坂道と残っているのは、おそらくそれにちなむものと思われる。
 “宿坂の関”は鎌倉街道の道筋にあったものといわれ、したがって、ここ宿坂はその街道上の地名と考えられる。古地図によると、鎌倉街道は現在のこの道より、やや東寄りに位置していたが、一応ここも鎌倉街道の名残りといえよう。
 今から三百年ほど前、このあたりには樹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみの坂道として狐狸の類がとびはねて、通行人を化かしたなどという話もいまに伝わっている。

説明書きには「現在のこの道より、やや東寄り」と書いています。明治の地図で見ると、

明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図
明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図。ブルーラインが古鎌倉街道。

東側(赤矢印)に崖があり、そちらの方に蛇行していたのでしょう。

東の崖上から宿坂を見る。
東の崖上から宿坂を見る。

江戸名所図絵を見ても坂はクネクネしています。宿坂西隣りの「のぞき坂」は上下通行車道としては都内ナンバーワンの急坂。

のぞき坂坂上より
のぞき坂坂上より

同じ目白台地を登る宿坂も、かなり急なので少しカーブしながら登っていたということでしょう。

金乗院の裏門あたりに「宿坂の関」と茶屋があったと云います。
宿坂の関は関東お留の関の一つ。中世には、四ツ谷、三軒茶屋、品川、千住などにも関があったと伝えらています。

また今は無き姿見橋の由来になった刑場もこの辺りにあったと云いますが、江戸以前、後北条氏の頃の話で場所の特定もできず、今では単に言い伝えとして残るだけの怖い話です(姿見橋=罪人の後ろ姿を見送る)。

金乗院門前の読めない碑

金乗院

金乗院前の読めない碑

金乗院門前のこの碑、「むせる」?
またまた出現した読めない崩し文字。ということで目白坂の謎の碑の解明でもお世話になった歴史のFBグループに質問するとなんと、「はせ寺」と読むとのこと。
長谷寺?金乗院なのに長谷寺とはこれ如何に?

そうです。ここには太平洋戦争の戦災(昭和20年、1945年5月)にあった新長谷寺の目白不動がお引越しなされているのです。これは新長谷寺にあった寺標です。

目白不動の碑もあり、目白不動と共に移転されています。

金乗院前の碑

金乗院境内に入ると様々な珍しいものが目に入ります。

倶利伽羅不動庚申塔

龍が描かれている庚申塔、こんなレアな庚申塔は見たことがありません。

倶利伽羅不動庚申塔
倶利伽羅不動庚申塔

ここは護国寺のように庚申塔が多いお寺です。近くの南蔵院にも庚申塔は多くあり、この古鎌倉街道沿いは、かなりの人口密度だったのかもしれません。

旗本、大名屋敷が多かった文京区に比べ、この辺りは農地が多く、庶民のものとしての庚申信仰が息づいていたようです。

庚申信仰
 庚申(かのえのさる)の日(60日ごと)人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人びとは一晩中夜明かしをした。
仏教では、庚申の本尊を青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている。これは、庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたものと考えられる。

庚申信仰自体、今でいう町内会の宴会のようなもので、地域のリクレーション、地域の団結に必要な潤滑油のようなものと考えます。

金乗院の庚申塔群
金乗院の庚申塔群。
南蔵院の庚申塔群
南蔵院の庚申塔群。

丸橋忠弥の墓

ここ金乗院には「丸橋忠弥の墓」があります。丸橋忠弥といえば、由井正雪と供に、幕府の転覆を図ったクーデター「慶安の変」(1651年)の首謀者。

忠弥坂由来の丸橋忠弥のお墓がこんなところにあるとは思いもしませんでした。

丸橋忠弥の墓
丸橋忠弥の墓。

考えるに、このお墓、どうも眉唾です。クーデターを画策した人物の墓を作るなど、幕府が許すはずも無いのです。
金乗院縁起によると、

鈴ヶ森で処刑された後に一族がひそかに遺骸を貰い受けて紀州に埋葬。後に末裔が金乗院に移し、安永9年(1780年)に墓碑を建てた。

とのこと。私くし的には、八百屋お七の墓のような寺社の観光資源、人寄せプロモーションに思えますが、どうなんでしょうか?

ともあれ、困窮する浪人を救うためのクーデターだったので、一部では忠弥ファンも多いのです。文京区の忠弥坂付近で槍の道場を開いていたというので興味シンシンなのですが、江戸初期のお話ゆえ、伝説の域を出ていません。

もう一つ珍しいものは、鍔塚

鐔塚
鐔塚

刀に詳しい方に聞いてみると、刀の鍔(つば)はもともと壊れにくい頑丈なものなので供養するのは珍しいとのこと。近くに鍔を作る職人がいたのではないかと推測されていました。

門を出て正面の家に面白いものを発見。
鳶口、刺又、半鐘。火消し?

火消し道具

古写真でしか見れないような道具が屋外に掛けてあり、タイムスリップしたような気になります。

火消し装束
古写真:火消し装束。赤矢印が鳶口。

根生院の道標

そして、道の角には道標。
金乗院から東に約70m行くと江戸時代の門が残る根生院(こんしょういん)があります。

根生院

明治35年(1902年)下谷池之端から移転してきた寺院です。風雪に耐え色あせた朱塗りの門が佇みます。

根生院の門

ここは元大名屋敷の庭園、明治維新後も徳川田安家邸だった地であり、戦前は池あり丘あり樹木ありの四季折々の風情が楽しめ、殊に菖蒲の頃は見物客で賑わったと云います。

明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より根生院
明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より根生院。砂利場という地名は神田川の砂利採取場があったため。

明治の地図を見ると確かに大きな池が確認でき、往時を偲ぶことができます。そんな庭は空襲でことごとく破壊されましたが、門だけは奇跡的に焼けずに残りました。

根生院の庚申塔
根生院の庚申塔。
宿坂下にあったと云う藤稲荷の道標
宿坂下にあったと云う藤稲荷の道標。
道標
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門前にはやはり庚申塔と、以前は宿坂下にあった道標と云われるものがあります。江戸名所図絵で云うと赤矢印のものかもしれません。

金乗院、根生院を見て、宿坂を登り、目白通りの向こうに古鎌倉街道は続きます。

鬼子母神参道入口

次は古鎌倉街道がそのまま参道になっている江戸情緒豊かな雑司ヶ谷鬼子母神編です。

 icon-arrow-circle-right 鎌倉街道をゆく4 雑司ヶ谷鬼子母神編へ続く