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落語「高田の馬場」の舞台を行く

江戸時代、人の多いところと言えば、両国橋、浅草寺の境内、奥山などと申します。今日も浅草寺の境内には、見世物や大道芸人がずらりと並び、にぎやかな人だかりができております。

江戸名所図会より両国橋の火除け地
江戸名所図会より両国橋の広小路。
古地図:嘉永三年(1850年)日本橋北内神田両国浜町絵図より両国橋の広小路
古地図:嘉永三年(1850年)日本橋北内神田両国浜町絵図より両国橋の広小路。
古地図:嘉永六年(1853年)尾張屋刊今戸箕輪浅草絵図より浅草寺
古地図:嘉永六年(1853年)尾張屋刊今戸箕輪浅草絵図より浅草寺(クリックで拡大)。

浅草寺の奥山。その芸人のなかで、居合い抜きを演じたあと、ガマの油の口上を述べている若者と年の頃二十四、五の美しい姉。

浅草寺奥山門(おくさんもん)。
浅草寺奥山門(おくさんもん)。奥山おまいりまち。

がまの油、その効能はなにかといえば、金創切り傷ほか、虫歯で弱るお方はないか

そこへ人を押し分けて、六十過ぎの侍が現れます。

その膏薬、二十年ほど前の古傷にも効くか」と尋ねる老侍。

ちょっと拝見」と若者が傷を見るなり
これは投げ太刀にて受けた傷ですな
さよう、お目が高い
老侍は身の懺悔(ざんげ)だからと語り始めます。

自分は福島藩の家中だが、二十年前、下役・木村惣右衛門の妻女に横恋慕をし、夫の不在をみはからって手ごめにしようとしたところ、立ち帰った夫に見とがめられ、これを抜き打ちに斬り捨てた

なにやら尋常ではない話に人だかりは聞き入ります。

その後、妻女が乳児を抱え、鬼のような形相で「夫の仇!」とかかってくるのを、やはり返り討ちに斬ったが、女の投げた懐剣が背中に刺さり、それがこの傷だ

ガマの油売りの若者は聞き終わると、キッと老侍をにらみ、

して、貴殿のお名前はっ⁈
岩渕伝内
なに!岩渕伝内!、かくゆう我は、なんじのために討たれし木村惣右衛門が一子、惣之助、これなるは姉のあや、いざ尋常に勝負いたせ〜‼︎
親のカタキぃ〜〜
姉がおんなの金切り声で叫びます。
こうなると人だかりは騒然。岩淵伝内は静かに、

なるほど、二十年前のことなので油断し口外したは、拙者の天命逃れざるところ、いかにも仇と名乗り討たれようが、今は主を持つ身、一度立ち返ってお暇を頂戴しなければならないので、明日正巳の刻(午前十時)までお待ち願いたい
よかろう、出会いの場は?
牛込、高田の馬場
よし、相違はないな
二言はござらん
というわけで、仇討ちは延期になります。

この事件は江戸の町に響きわたり、熊さん、八っつあんもご多分にもれずに、

おいおい、浅草で仇討ちがあったんだってぇ?
日延べだよ
えっ(*’д’*)、曽我兄弟でも十八年、それを二年も上回る二十年なのに日延べってぇ、なんだよっ
しょうがねえだろ、仇敵の爺さんが、今日はお遣いなんで、明日、高田の馬場で、ってぇいうんだよ
んじゃあ、あした行ってみるか
おうっ

という具合に、翌日、大勢の人々が高田の馬場へ押し寄せます。

高田の馬場の茶屋

馬場の茶屋では仇討ち見物を見込んで、よしず張りの掛け茶屋がズラリ。そのどれもぎゅうぎゅう詰めの混み合い。

江戸名所図会より高田の馬場
江戸名所図会より高田の馬場(クリックで拡大)。

みな待っていますが、仇討ちは、いっこうに始まらずに、とうとう一刻(二時間)過ぎて、正午の刻に。

古地図:嘉永七年(1854年)牛込市ヶ谷大久保絵図より高田の馬場の茶屋通り
古地図:嘉永七年(1854年)牛込市ヶ谷大久保絵図より高田の馬場の茶屋町通り(クリックで拡大)。
高田の馬場に残る茶屋町通り。
高田の馬場に残る茶屋町通り。
高田の馬場の決闘で名高い堀部安兵衛顕彰碑は、今、水神社境内にあります。
高田の馬場の決闘で名高い堀部安兵衛顕彰碑は、現在、水稲荷神社境内にあります。

また日延べかとざわつきだしたころ、ある掛け茶屋で、昨日の老侍が悠々と酒を飲んでいるのを見つけた者があります。

もし、お侍さん、のんびりしてちゃあ困りますよ。仇討ちはどうなりました?
ははは、今日はなしだ
はぁ(ノ゚⊿゚)ノ?、それじゃあ相手が済みますまい
心配いたすな、あれは拙者のせがれと娘
えっ!なんだってぇ、そんなうそをついたんですっ?
ああやって人を集め、掛け茶屋から上がりの二割をもらって、楽に暮らしておるのだ
(・_・)………

別名「仇討ち屋」という一席でございますm(_ _)m。

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