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上野戦争ー残された弾痕(前編)

靖国神社の大村益次郎像は一体どこを見ているのでしょうか?
皇居でもない、靖国神社本殿でもない。
彼の視線の向こうには、そう、上野のお山があります。

江戸城富士見櫓から、遠く上野方面を双眼鏡で見、彰義隊との戦争を指揮する姿です。

靖国神社大村益次郎像

彰義隊

鳥羽伏見の戦いの後、慶応四年(1868年)2月12日、徳川慶喜公は恭順の意を表し、上野寛永寺に蟄居。彰義隊は将軍警護と江戸の治安維持のために結成され、上野のお山に集結します。

再建後の寛永寺根本中堂
再建後の寛永寺根本中堂。

慶応四年(1868年)4月11日、江戸城は無血開城され新政府軍が入城。戦禍が無かったことに江戸の市民は、ホッとひと息つきます。

「江戸開城、西郷南洲・勝海舟会見の地」の碑
田町駅近くの「江戸開城、西郷南洲・勝海舟会見の地」の碑。

しかしながら、黒船が来てからというもの、物価は高騰、幕府は崩壊し、参勤交代で地方から流入していた富も途絶えます。

旗本御家人は職を奪われ、今でいうとまるで親会社が倒産した企業城下町状態です。江戸の経済は停滞し、不平分子が現れても不思議ではありません。

幕府復権、出世を夢見る彰義隊は慶喜公が水戸へ退いても上野のお山へ居座ります。

吉原や品川の遊郭で遊ぶ新政府軍の兵士を、彰義隊士が斬るような事件が起きると、江戸っ子たちは諸手を挙げて喜んだ、などと云う話もあるぐらいで、新政府に不満を持つヒーローとして彰義隊は市民に人気があったようです。

西郷さんや勝さんにしてみれば、江戸の治安維持を頼んだはずの彰義隊が逆に暴れ出し反政府勢力になったものですから、彼らの心情はよくわかっていたものですから、人情味のある二人には手に負えずに、解散命令を出しても一向に聞き入れませんでした。

大村益次郎、江戸入り

大村益次郎新政府はこの事態に対応し、大村益次郎(文政七年(1824年)ー明治二年(1869年))を京都から呼び寄せます。なにせ幕長戦争で人的不利をものともせず連戦連勝に導いた近代戦の司令官です。
彼は徹底した合理主義の申し子と云える人物で「暑いですねぇ」と挨拶されれば「夏は暑いのが当たり前です」と答えるような有様。
大村ならやれると云う期待が新政府にはありました。

軍資金はどうするか?

大村益次郎は、数字にも強い男です。この戦争にかかる金額を算出すると、ざっと50万両。その頃、大隈重信が軍艦購入のために持っていた25万両を「横浜で軍艦を遊ばせておくおつもりか」とぶん取り、江戸城宝蔵にあった宝物を外国人に売りつけ必要額を捻出します。この時、秘宝海外流出などと云う事は考えていません。彼も無類の書画骨董好きのようでしたが、目的は戦争勝利のみと云う合理的な益次郎です。これにより最新銃などの軍備を整えます。

事前の戦略

上野の山に居座る彰義隊(一説には3000人)をいかに殲滅するか?。まずは決戦の十日ほど前、決戦の日を5月15日、場所を上野のお山と定め、江戸市中の高札場に掲げます。

古写真:明治六年(1873 年)日本橋の高札場
古写真:明治六年(1873 年)日本橋の高札場。

これは市民の避難、戦争長期化を避け、江戸中を火の海にしないためであり、また、彰義隊士にこの戦いに大義はあるのか?勝算はあるのか?と考える時間を与え、結果、勢いだけで集まった2000人近くが山を降りたと云います。

部隊配置

実戦部隊は二つ。正面攻撃、主戦場となる広小路黒門前軍(薩摩兵中心)と搦手(裏門)の団子坂下軍(長州兵中心)。(軍隊名は所在地で表記)。

上野戦争主力配置図
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広小路黒門前軍(A)
薩摩藩兵100名・砲兵隊(四斤山砲など7門)
熊本藩兵100名・砲兵隊(砲数不明)
鳥取藩兵100名・砲兵隊(砲数不明)
広島藩兵200名

団子坂下軍(B)
長州藩兵200名
佐賀藩兵100名
大村藩兵50名
佐土原藩兵80名・砲兵隊(臼砲1門)
尾張藩砲兵隊(仏製、おそらく四斤山砲2門)

不忍池対岸の砲撃部隊として

本郷富山藩上屋敷軍(C)
佐賀藩砲兵隊(アームストロング砲2門)
本郷水戸中屋敷軍(D)
岡山藩砲兵隊(臼砲3門・米製砲2門)
津藩砲兵隊(臼砲2門)

この配置を見て、西郷さんは
薩摩兵を皆殺しにするおつもりか」と問い、
益次郎は「そのとおり」と。

西郷さんは沈黙し座を辞したという話は有名ですが、その時のことを書記官は、
「大村ハ、靜カニ扇子ヲ開閉シ、天ヲ仰ギテ言ナシ。スデニシテ曰ク。然リ、ト」「貴殿ヲモ殺スツモリデゴザル」
と書いています。

その後、西郷さんは部下に
大村さんに自分を一番難しいところへやってくれと頼んでおいた」と言ったと云い、それで薩摩兵の士気が一気に高まったというので、西郷さんの器が大きいのか、益次郎が頭がいいのかわからない。いや、両方なのでしょう。

また、いったん山を降りた彰義隊士が市中で決起、放火する恐れもあるので警戒部隊として

一橋より水道橋方面:徳島藩兵
和泉橋・昌平橋津藩兵
水道橋より水戸上屋敷方面:尾張藩兵
神田橋、湯島聖堂付近:新発田藩兵
本郷追分:岡山藩兵
吾妻橋:紀州藩兵
両国橋:久留米藩兵

王子宿場:福岡藩兵・芸州藩兵・津藩兵
戸田宿場:岡山藩兵、
川口宿場:幕臣大久保氏の手勢
川越藩監視:福岡藩兵
忍藩監視:芸州藩兵
古河藩監視:佐賀藩兵

実際、湯島天神付近で起こった放火を、折からの雨もあって消し止めた記録があります。なんとなく、決戦の日を梅雨に持ってきたのも益次郎の策だったような気がし、天も味方したようです。

上野戦争包囲網(クリックで拡大)。
上野戦争包囲網(クリックで拡大)。

という具合に上野のお山を二重にとり囲み用意万全。
地図を見ると上野のお山の北東方面には部隊を配置していませんが(?_?)。

これは彰義隊の敗走路を設けることで戦闘を短時間で終わらせる狙いがあるのと、この方角には彰義隊の拠点の一つ、浅草本願寺、旧幕府軍の野戦病院となる称名寺があります。益次郎は市中に密偵を放ち、称名寺のことも知っていたのかもしれません。
村医者上がりの益次郎ならありえることです。

上野のお山ばかり語られることが多く、あまり知られていませんが、市中でも小競り合いがあったようです。

後楽園でのチャンバラ

池波正太郎先生はエッセイの中で上野戦争当時、水戸上屋敷(現・小石川後楽園)に仕えていた母方の曽祖母の実話として、「チャンバラ映画を見ていると、曽祖母はいつも、ちがうちがうと言う」と書いています。

「塚原卜全のような名人ならともかく、普通の侍の斬り合いはあんなもんじゃない。よく覚えておおき」
 上野戦争の時(略)
 「私たちは、みんな薙刀を掻い込み、鉢巻を占めて、殿さまをおまもりしたんだよ」と、曽祖母は、カビが生えた梅干しみたいな顔に血をのぼせて、
 「そのとき、彰義隊が一人、御屋敷の御庭へ逃げ込んできた。官軍が一人、これを追いかけて来てね、御庭の築山のところで、一騎打ちがはじまった」
 それを目撃したのである。
特別史跡・特別名勝「小石川後楽園」
小石川後楽園
二人は刀を構え、長い間、睨み合ったまま、うごかなくなってしまった。それは気が遠くなるほどに長い、長い時間だったそうな。 そのうちに、二人がちょっと動いたかとおもったら、官軍の方が、 「大きな口を開けたかとおもったら」 うつぶせに倒れてしまった。

官軍は配置から見ると尾張藩士だったようです。こんな話を読むと近所だけに生々しくに感じられます。池波先生母方の寺は後楽園近く、富坂の西岸寺だとも書いています。

西岸寺
西岸寺

決戦の5月15日は、新暦でいうと7月4日。まだ梅雨の雨が降っています。

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上野戦争ー残された弾痕(後編)

上野戦争ー残された弾痕(前編)からの続き

慶応四年(1868年)5月15日(新暦7月4日)午前3時、江戸城二重橋前の大下馬に集合した新政府軍は、道案内人を伴い、それぞれの配置へと向かいます。

江戸城大下馬
江戸城大下馬。
上野戦争主力配置図
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広小路黒門前軍(地図A)

午前7時、広小路、忍川に架かる三橋を挟んでの激戦が始まります。広小路の松坂屋前(今も昔も松坂屋)に陣取る西郷さん率いる新政府軍と黒門を守る彰義隊は一進一退、最初のうちは彰義隊優勢に進展します。

江戸名所図会より広小路三橋。
江戸名所図会より広小路の黒門前三橋(クリックで拡大)。
上野広小路。正面の緑が上野のお山、右側が松坂屋デパート。
上野広小路。正面の緑が上野のお山、右側が松坂屋デパート。
上野広小路三橋
上野広小路の「三橋」があった辺り。道路が盛り上がっています。
山王台の西郷さん
山王台の西郷さん。

山王台(現・西郷隆盛像のある高台)から繰り出すフランス山砲(小栗上野介関口大砲製作所で製造)の正確無比な砲弾に手を焼きますが、それに対抗して、山王台正面の料理屋「雁鍋」の二階に四斤山砲を抱え上げ、応戦します。

四斤山砲と幕府が作ったフランス山砲
四斤山砲と江戸幕府が作った青銅製のフランス山砲。

彰義隊vs広小路黒門前軍

やがて「雁鍋」は建物自体崩れ去りますが、装備で勝る新政府軍が黒門を突破。清水堂、屏風坂、車坂方面に突入していきます。

屏風坂、車坂方面はJR上野駅公園口、現在、科学博物館、西洋美術館、東京文化会館が建っています。
西洋美術館:屏風坂、車坂方面は現在、JR上野駅公園口、科学博物館、西洋美術館、東京文化会館が建っています。
JR上野駅公園口
JR上野駅公園口。

団子坂下軍(地図B)

片や、搦手(裏門)の団子坂下軍(地図B、長州兵主力)は折からの長雨で溢れた藍染川を挟んで彰義隊と対峙。

団子坂下軍vs彰義隊
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先鋒の長州兵が突撃!がしかし、銃声が聞こえません。長州の援護射撃部隊からも銃声はナシ。長州兵の面々は最新式のスナイドル銃の操作が分からずに孤立し、彰義隊の銃弾の雨あられにさらされます。危うし長州兵!

そこへジャブジャブと川へ飛び込んできたのが旧式の連発銃を持つ佐土原藩兵。佐土原藩は薩摩の支藩であり、歴戦の、維新戦争の強者です。ここはひとまず、前線を佐土原藩兵に任せて長州兵は退却します。

実はこのスナイドル銃、大村益次郎が上野戦争のために購入した最新銃です。がしかし、一丁に付き弾丸が50発しか付いておらずに、益次郎は弾丸が惜しいと言い、試射は一発のみ。
天才は銃の構造から理解するので、試射は一発で十分なのかもしれませんが、凡人には理解できません。益次郎の天才が悪いほうに作用したようです。

長州兵は加賀藩邸、心字池(現・東京大学内の三四郎池)にいる参謀の元へ走り銃の操作を教えてもらいます。長州兵はこの時ほど益次郎の天才を呪ったことはないでしょう。

加賀藩邸、心字池(三四郎池)
加賀藩邸、心字池(三四郎池)。

銃の操作がわかった長州兵の働きは凄まじく、鬼神のように突撃、三崎坂(さんさき坂)を駆け上り谷中天王寺へと迫ります。

藍染川に架かっていた枇杷橋跡から三崎坂を見る。
藍染川に架かっていた枇杷橋跡から三崎坂を見る。

黒門前軍ばかりクローズアップされがちですが、こちらにも多数弾痕が残っています。

三崎坂の永久寺(地図緑矢印)。普段一般公開されていませんが、臼砲と四斤山砲の弾丸が残ります。
三崎坂の永久寺(地図緑矢印)。普段一般公開されていませんが、臼砲(左)と四斤山砲(右)の砲弾が残ります。
谷中の経王寺(地図青矢印)山門には無数の弾痕。
谷中の経王寺山門。
経王寺山門の弾痕
谷中の経王寺(地図青矢印)山門には無数の弾痕。
江戸名所図会より経王寺山門
江戸名所図会より経王寺山門(クリックで拡大)。
三崎坂坂上の長久院山門。これは内側から外側に向かって発射された弾痕。もしかすると彰義隊のものか?
三崎坂坂上の長久院山門(地図赤矢印)。これは内側から外側に向かって発射された弾痕。もしかすると彰義隊のものか?

黒門前の激戦

ついに上野のお山の正面入口である黒門を突破した新政府軍は清水堂などで白兵戦を繰り広げます。

彰義隊奮戦の図。説明板より。
彰義隊奮戦の図。説明板より。
京都の清水の舞台を模した清水堂。
京都の清水の舞台を模した清水観音堂。
清水堂の奉納額
清水観音堂の奉納額(クリックで拡大)。
江戸城富士見櫓
江戸城富士見櫓

午後一時、江戸城富士見櫓で双眼鏡片手の益次郎に黒門突破の報が届きます。「そろそろですな」と益次郎の一言。

やがて、本郷の富山藩邸(現・東京大学付属病院)、水戸藩邸(現・池之端)から砲声が轟きます。

清水堂奉納額の脇の砲弾。右:四斤山砲、左:アームストロング砲。
清水堂奉納額の脇の砲弾。右:四斤山砲、左:アームストロング砲。

清水堂奉納額の砲弾このアームストロング砲弾(左)を見ると旋条痕が残っているので不発弾か、もしくは火薬を入れないで撃ったものです。
四斤山砲砲弾(右)は胴体部分のリベットが旋条に入り、横回転を加える設計です。

アームストロング砲
アームストロング砲

アームストロング砲は飛距離・命中精度・連射性能、その破壊力の凄まじさに、佐賀藩公、鍋島閑叟が「同民族の争いに使ってはならない」と江戸佐賀藩屋敷に封印してあったものです。益次郎も五発以上(計十発)は撃つな、と言い聞かせていたもの。

不忍池
不忍池。写真左から弁天様向こうの白い建物(上野精養軒)の裏に着弾。

最初のうちは、砲弾が不忍池に落下。ここまでは届くまいとタカをくくっていた彰義隊ですが、それは、屏風坂、車坂方面に攻め込んでいた自軍への砲撃を避け、慎重に距離を計っていたためでした。やがて砲弾は寛永寺本坊(現・国立博物館)まで達します。ついに上野のお山は落ち、益次郎が用意していた北東方面に彰義隊は敗走していきます。

燃えている上野のお山を見て江戸っ子たちは泣いたと云います。

寛永寺本坊があった国立美術館。手前の噴水辺りに根本中堂があった。
寛永寺本坊があった国立美術館。手前の噴水は根本中堂があったところ。
彰義隊の本陣があった寒松院跡は今の上野動物園。
彰義隊の本陣があった寒松院跡は今の上野動物園。
焼け野原になってしまった寛永寺。
古写真:焼け野原になってしまった上野寛永寺。
旧寛永寺本坊山門
旧寛永寺本坊山門

焼けずに残った旧寛永寺本坊山門には多くの銃弾痕と飛散した砲弾痕が残ります。

旧寛永寺本坊山門の砲弾痕、銃弾痕
旧寛永寺本坊山門の砲弾痕、銃弾痕。

山王台の彰義隊兵士を荼毘に付した場所には彰義隊の墓(山岡鉄舟揮毫)が、黒門のあった位置には黒門を模した壁泉があります。

上野のお山の彰義隊の墓
上野のお山の彰義隊の墓
黒門を模した壁泉
黒門を模した壁泉。

彰義隊墓石

彰義隊墓石の前にお前立ちのように立つ標石は新政府軍の目をはばかって地中に埋めていたと云うもの。
発掘され供養されています。

オリジナルの黒門は明治四〇年(1907年)、荒川区の円通寺に移築され、数々の弾痕が激戦を今に伝えています。

円通寺の黒門

円通寺黒門の弾痕

円通寺の彰義隊の墓
円通寺の彰義隊の墓。

急速な軍制改革を進める大村益次郎もまた、元長州藩士の反感をかい、明治二年(1869年)暗殺により倒れます。遺言は陸軍病院の必要性を説いたり、四斤山砲をたくさん作って置けという内容で最後まで合理主義を貫いた日本陸軍の祖でした。

最後の将軍、徳川慶喜公は明治の世を生きぬき、大正二年(1913年)没します。
激戦の地であった谷中霊園に夫人とともに眠っています。

徳川慶喜と婦人の墓
徳川慶喜公と婦人の墓