幕末の乱世を笑い飛ばす落語「蔵前駕籠」の舞台を行く

落語には「永代橋」のように、実際に起きた事件をネタにしたものがあります。
時は慶応四年(1868年)、ご維新の混乱の真っ只中、上野戦争勃発直前です。この頃、頻発した事件を元にしたお噺です。

落語「永代橋」を参照

「上野戦争」を参照

蔵前駕籠

江戸市中から浅草寺や吉原へ粋に行くには、お大尽なら屋形船、猪牙舟を仕立てて山谷堀をのぼります。

山谷堀跡
山谷堀跡。

小金持ちなら浅草見附から江戸市中を出て、駕籠を利用して揺られて行きます。

浅草橋たもとの浅草見附跡。
浅草橋たもとの浅草見附跡。

江戸市中から吉原に行くには蔵前通り(蔵前橋通りではなく、今の江戸通り)から花川戸を抜け、日本堤の土手(今の土手通り)を行くのが近道。

明治二年(1869年)東京全図より浅草見附から吉原。
明治二年(1869年)東京全図より浅草見附から吉原(北が右)。
歌川広重画「新吉原衣紋坂日本堤」
歌川広重画「新吉原衣紋坂日本堤」。吉原大門の見返り柳前の土手を多くの駕籠が行き交っています。
吉原大門交差点。左手に見返り柳
吉原大門交差点。左手に見返り柳。手前が土手通り、奥に衣紋坂。

土手通りには多くの駕籠が行き交い、チップをはずまないとゆっくりと走り、何台もの駕籠に抜かれ、このように……。

おーい、ちいと遅くないかい?
そうですかぁ、旦那ぁ、自慢じゃあねえが、こちとら先行く駕籠には一度も抜かれたこたぁござあせんぜえ

一分金
一分金

エッホ〜イ、お〜い、相棒
なんだぁ
先日のお客は粋なお方だったねえ
ああ、あのお方ねぇ、エッホ〜イ
吉原大門前で降りる時、こんな担ぎっぷりのイイ駕籠に乗ったのは初めてだっと言ってぇ、祝儀を金一分ずつくれたっけなあ、エッホ〜イ

担ぎ手の会話を聞いて、お客さんは「グワァ〜、グワァ〜」と偽イビキをかいて狸寝入り。
大門前に着き、起こされると、

旦那ぁ、着きましたぜぇ
んんっ、着いたかい、しかし先日の駕籠屋は粋だったねえ、お客さんみたいに乗りっぷりのイイ客は初めてだっと言ってぇ降りる時に祝儀を一分ずつくれたっけなぁ
それを聞いた担ぎ手は駕籠を担いだまま
グワァ〜、グワァ〜

そんな平和な光景があったような無かったような。

栄泉画「吉原の雨」
栄泉画「吉原の雨」。

幕末ともなると物騒な話になってまいります。

蔵前通りといえば吉原に遊びにいく大金を持った客が多い。そんなわけで夜な夜な追いはぎが出没します。
十数人もの徒党が駕籠を取り囲み、

我々は由緒あって徳川家にお味方する浪士の一隊、軍用金に事欠いておる、吉原で使う金を我々が清く使ってやろうぞ、そのほうに所望いたす、命が惜しくば身ぐるみ脱いで置いてゆけ!
駕籠担きは逃げ、駕籠とお客さんだけに。
ヒエ〜ッ、命だけはお助けをぉ〜
と着ているもの全部脱ぎフンドシ一丁の姿に。

それでは寒かろう、襦袢だけは勘弁してやる
おありがとうございます〜(p_q、)
自分のものを返してもらって礼を言うのも変ですが……。

という始末に、茅町の「江戸勘」など名のある駕籠屋は、評判にかかわるというので暮れ六ツ(午後6時ごろ)以降の営業を停止してしまいます。

明治二年(1869年)東京全図より茅町。
明治二年(1869年)東京全図より茅町(北が右)。
茅町は今の浅草橋駅前周辺。
茅町は今の浅草橋駅前周辺。

そんなかんなで吉原の方でも閑古鳥が鳴いてしまいます。

とある商家の旦那は、女郎から「会いとうて会いとうて、来てくんなまし」なんてぇ文をもらって「くんなます、ええ、くんなますともぉ」などと有頂天になり、こんなに空いている時に行けばぁ、さぞかしモテるだろうと思っておりまして、暮れ六ツ過ぎに江戸勘を訪れます。

おおっ、吉原までやってくんなっ
щ(゚Д゚щ)
と言っても浪士の追いはぎが出てたら構わず逃げてくれっ、駕籠賃も祝儀も一分ずつ前払いだっ、取っといてくんな
えっ、えーお客さん!今夜は寒いですしぃ…出そうですしぃ…
どうしても行きゃなきゃあならねえんだ、こっちゃあ、温めてくれる人が待ってるんだよぉ、えへへ(#^.^#)

親方ぁ、どうしますかぁ?
うーん、気に入ったあ!、おのろけまで聞いちまった、そのお客さんは女郎買いの決死隊だよ、さっ、お前たちやっておくれ

おっ、江戸勘の親方、ありがとよっ、おめえさんたちにも準備があるが、こっちにも準備があるんだよっ
と言って支度をするお客の旦那。
支度が済んで、駕籠は天王橋(須賀橋または地獄橋)を過ぎ、榧寺(かや寺)の前まで来ると、案の定、

明治二年(1869年)東京全図より天王橋、榧寺
明治二年(1869年)東京全図より天王橋(須賀橋)、榧寺(正覚寺)(北が右)。確かに榧寺から道が狭くなっており、襲撃には好都合か。
須賀橋交差点
須賀橋交番前交差点。
榧寺(かや寺)
榧寺(かや寺)。

旦那、ぼちぼち出そうですぜ、出ますよ、出たあぁ〜
おうっ、おめえさんたちは構わず逃げてくれっ!
へ、へえ、ヒエ〜ッ
と駕籠を置いて一目散に逃げていきます。駕籠はたちまち浪士たちに囲まれてしまいます。

うふふふ、我々は徳川家にお味方する浪士の一隊、軍用金に事欠いておるのでそのほうに所望いたす、これ、中におるのは武家か町人か⁈、身ぐるみ脱いで置いて……
刀の先で駕籠のすだれをあげると、裸同然、フンドシ姿の旦那が腕組みをして座っております。

(・_・)……うむっ、既に済んだかあ

この商家の旦那は、駕籠の座布団の下に隠しておいた金銭、着物を着、榧寺前から吉原まで歩いて行かなければならないのですが、結局のところ、賊徒と化した旧幕府軍を茶化しただけ……まあ、そんな野暮なことは言いますまい(^^*)。

蔵前橋西詰めにある浅草御蔵跡の碑
蔵前橋西詰めにある浅草御蔵跡の碑。

幕末通ならご存知の通り、浅草、今戸辺りは、新政府に江戸市中から追い出された旧幕府軍の拠点。

浅草本願寺では彰義隊の結成式が行われ、今戸の称福寺には旧幕府軍の野戦病院が置かれ、穢多村は旧幕府軍に資金提供しています。吉原で遊ぶ新政府軍兵士が斬られるなど幕末大いに荒れた地域。

取り締まる側のお上が賊徒に成り下がり、江戸っ子にとっては言いようのない憤りがあったようですm(_ _)m。

浅草本願寺
浅草本願寺(東本願寺)。

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お江戸のカタストロフィ・落語「永代橋」の舞台を行く

隅田川に架かる永代橋。今の橋は四代目。初代は元禄十一年(1698年)、二代目は文化五年(1808年)に架け替えられ、三代目は明治三十年(1897年)、日本初の鉄橋として架橋されましたが関東大震災で痛み、その北側のお隣に今の橋が大正十五年(1926年)に架けられました。

三代目と四代目の永代橋。
三代目と今の四代目の永代橋。

この噺は初代の橋に起きた実話を元にしたものです。

永代橋

文化四年(1807年)八月十五日に行われるはずだった深川八幡の御祭礼。雨で延びに延びになり、やっと晴れた十九日に執り行われることになります。

渓斎英泉画「東都永代橋の図」。
渓斎英泉画「東都永代橋の図」。
江戸時代、日本橋川脇のこの道の突き当たりに永代橋があったようです。
江戸時代、日本橋川脇のこの道の突き当たりに永代橋があったようです。
右の豊海橋の向こうに永代橋が見えます。
江戸時代の永代橋西詰め。右の豊海橋の向こうに今の永代橋が見えます。

神田大工町に住む武兵衛も物見遊山で散財しようとやって来ますが、永代橋のたもとは押すな押すなの混み合いで、身動きができずにいると、スリに遭ってしまいます。

文化江戸図より永代橋、神田大工町、新川付近。
文化江戸図より永代橋神田大工町新川付近(クリックで拡大)。

一文無しになり、仕方なく帰ろうとすると、新川に住む知り合いの「山口屋」さんにばったり出会います。
この混雑に深川の八幡様に行くのを諦めた山口屋さんに、

うちは近いですから、うなぎでもつまみながらチビチビやりましょうかぁ

と家に招待され、二人で呑んでいると、人の重みで永代橋が落ちたとの知らせがщ(゚Д゚щ)。

外は大変な騒ぎですよ、まあ、今日のところはうちに泊まってきなさいな」と言われ、翌日朝から呑み直し、お小遣いまでもらい、イイ気持ちになって長屋に帰ってまいります。
すると家主の多兵衛が、うおさおと長屋を走りまわっています。

大家さん、どうかしたんですかぁ?
おぉ、武兵衛、おめえ、祭りに行ってたなぁ、まあいい、ちょうど良かった、一緒に来い!
どっ、どこへすかぁ?
おめえ、昼間っからぁ酔ってやがんなあ、だからこんなことになるんだっ
えへぇ〜どうもぉ
笑ってる場やいかっ、今朝なぁ、奉行所からこんな差し紙(通知)がきたんだ
と言ってその差し紙を見せます。そこには、

神田大工町・家主多兵衛支配店・武兵衛
水死に付き 引き取りに参れ

と書いてあります。

えっ(*’д’*)、あっし、死んだんですかい?
あぁ、橋から落っこって死んじまったんだ、お上が引き取りに来いと言うんだ、本人が行けば間違えがねえだろう、行くぞっ
と二人は奉行所へと歩いて行きます。

う〜ん、どうも死んだ気がしねえんですけどねえ
馬鹿やろっ、おめえ、初めての死だろっ、初めての死で人の死んだ心持ちがわかるわけがねえっ、死んだくせに生意気だ!少し後ろを歩けっ!

奉行所に着き、武兵衛が武兵衛の遺体と対面します。

えっ、これがあっしの遺体ですか?、あぁ〜こんな姿になるんだったら先月無理して家賃払わねえで美味しいものでも食っておくんだったなぁあ〜 (p_q、)
馬鹿やろ!まだ四つもたまってるっ
お香典ください
家賃と帳消しだっ
ん〜ん、ちょっとぉ顔が長くないですか?
水に浸かって伸びたんだ
こんなところにホクロあったかなあ?
死ぬ時にホクロの一つや二つできることもある
着物も違いますけどおぉ?
大勢で亡くなったんだっ、落ちてく間に、こっちの着物があっちの着物と入れ替わることだってあるんだっ、さっさと引き取れっ、独り者なんだから自分のことは自分でやれっ
えー、これは重そうだなぁ、じゃあ、こっちの軽そうなのを
馬鹿やろっ、魚買いに来たんじゃねえんだぞっ、ボカッ
と頭を殴られ、言い合いになってしまいます。
この言い合いの仲裁に入った役人が理解します。

武兵衛のスラれた紙入れ(財布)が遺体の懐から出てきたのでスリが代わりに死んでくれたようなものだと判明します。紙入れの中に名札があったので多兵衛のところへ通知が行ったのです。

まだ口論している二人に役人が言います。

武兵衛、そのほう、お前の負けじゃ
へっ?なっなんでですか?
多兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわん

 橋上の機転が大勢の命を救う
文化四年(1807年)八月十九日に起きたこの悲劇、永代橋崩落事故では、その日のうちに198名の水死が確認され、一説には計千人以上が犠牲になったと云います。その後いく日もの間、下流に下駄が流れてきたと云うほど。

それでも犠牲者は少なかった方だろうと云われていますが、それはなぜかというと。

その時、たまたま橋上にいた町奉行所同心、渡辺小左衛門という侍が橋の異変に気付き、欄干につかまりながら刀を抜き、白刃をキラキラと頭上で振り回し「斬るぞぉ斬るぞぉー」と叫んだため、後から押し寄せる群衆は「喧嘩だ!ケンカだぁ!」と後ずさりしたため、橋の崩落箇所(深川側から四・五つ目の橋脚部)からの将棋倒しのような転落が止まったと云います。

文化四年八月富岡八幡宮祭礼永代橋崩壊の図
文化四年八月富岡八幡宮祭礼永代橋崩壊の図(クリックで拡大)。

架橋されてから百九年目の大事故。
老朽化も甚だしいものがあったようです。

実在した武兵衛

実はこのお噺の「武兵衛」には実在したモデルがいました。

隅田川を船で通りかかり、偶然、この惨劇を見ていた当代一の文人、大田南畝(1749年ー1823年)は、その記録集、当事者へのインタビューなどをまとめた「夢の憂橋」なる著作をものしています。

その本の中で、祭礼に行く途中、二両二分スラれ、スリの水死体から自分の紙入れが出てきたため、自分が水死と奉行所に間違われたという稀有な体験をした人、本郷に住む麹屋武兵衛の話が載っています。
この話を元に落語にし、カタストロフィを笑いで吹き飛ばてしまう。そんな文化が、お江戸にはありました。

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